“名裁判官”じゃなかった? 大岡忠相
2013年10月7日 朝日デジタル
機知に富み、人情味にあふれ、公明正大な裁きを下す町奉行として、落語やテレビドラマで描かれてきた大岡越前守忠相(ただすけ)。
しかし彼が本当に活躍したのは、むしろお白州の外だった。
■江戸改革の名官僚/庶民がヒーロー化
忠相が江戸の市政全般を担う町奉行に任命されたのは、数えで41歳。
歴代町奉行の多くは就任年齢が50〜60代だから、格段に若い。
当時、忠相の俸禄(給与)が町奉行の基準より低かったことも考えると、理由は不明だが、新将軍・吉宗の抜擢(ばってき)人事だったと言って良さそうだ。
1590年に家康が入府してから発展を続け、18世紀前半には人口が町人だけでも約50万人に達した江戸。
安全なまちづくりは、吉宗による享保改革の柱の一つだった。
大石学・東京学芸大教授は
「忠相はその先兵となった官僚」と位置付ける。
過密都市につきものの悩みが火災。忠相は、町家を瓦ぶき、しっくい塗りとする予防策を、時に違反者を処罰する厳しい姿勢で進めた。
火よけ地や火の見櫓(やぐら)も整備。武士中心だった火消しに町人を積極的に使う方針を打ち出し、町人自らが自分たちの街を守る体制を築く。
農村から流入し、貧しい暮らしを送る人々の生活安定にも力を入れた。
小石川養生所は設立から約140年間、貧窮した病人を救う施設として機能した。
幕末まで続く江戸の街は、この時代に築かれたと言える。
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同じころ、江戸周辺の農政にも携わっている。
1722年から約25年間、専門の役人たちを率い、武蔵野新田(東京都西部・埼玉県南部)の開発・経営や、治水工事などにあたった。
本来、関東の農財政は勘定所・代官の担当。
大石教授は、財政再建のため新田開発に力を入れる吉宗が「担当組織を活性化するカンフル剤として、忠相を起用したのでは」と考える。
農政では忠相は人材の発掘、支援に回ったようだ。
サツマイモの栽培で有名な青木昆陽も、こうした専門家の一人だった。
数え60歳の時、忠相は全国の寺社などを管轄する寺社奉行に任命される。
通常は1万石以上の譜代大名のポスト。
3920石の旗本の異例な昇進を、ねたまれたのか。
年若の同役から控室を使わせてもらえないという「いじめ」を受けるなど、重用ゆえの苦労もあったようだ。
改革を共に進めてきた忠相への信頼は、吉宗の晩年まで揺るがなかった。主君の葬儀を担当した6カ月後、忠相は後を追うようにその生涯を終えた。
「大岡政談」に収められた名裁きのうち、実際に忠相が裁いたのは「白子屋お熊」ぐらい。
それも、不義をはたらいた男女を処刑した「事実」の部分は、主題にもなっていない。
あとは中国の古い裁判物語や別の奉行の担当事件が、元ネタという。
なぜ「忠相=名裁判官」というイメージが作られたのか。
町奉行の在職期間が約20年と長く、庶民の生活に深く関わる都市政策を手がけた。
江戸以外の地域でも名前が知られていた。組織の枠を超えて仕事をした――。
いくつかの理由が、体制の中にヒーローを求める人々の心の琴線に触れたのだろう。
死後20年もすると、名裁判官として語られるようになる。
享保の世から約300年。そろそろ「名官僚」としての忠相を描く物語が生まれても良いのではないだろうか。
■読む
■見る
大岡忠相が主人公のドラマといえば、約30年間にわたりシリーズ全402話が放送された加藤剛主演の「大岡越前」。
現在はDVDで見ることができる。
NHKは今年、BSプレミアムで東山紀之主演のリメークを放送。
■訪ねる
神奈川県茅ケ崎市にある大岡家の菩提寺・浄見寺には、忠相を含む一族の墓がある。
毎年4月には大岡越前祭が開かれる。
東京都文京区の東京大学大学院理学系研究科付属の小石川植物園内には、小石川養生所の井戸が残る。
■そのころ世界は
忠相が活躍した18世紀前半、ヨーロッパでは列強諸国がしのぎを削る時代となった。
特にフランスと、商業の発展により実力をつけたイギリスは激しく対立。
スペイン継承戦争(1701〜14)など、ことあるごとに敵味方に分かれて戦い、植民地のある北アメリカでも争った。
また啓蒙(けいもう)思想が盛んになり、モンテスキューが「法の精神」(1748年)で主張した三権分立論は、後のフランス革命などに大きな影響を与えることとなる。
一方、中国では清朝が最盛期を迎え、チベットにまで影響力を拡大した。
迷首相、迷市長などの名ならすぐ浮かぶ 現在が悲しい。