毎日新聞 2013年10月22日 東京地方版
医療型障害児入所施設「びわこ学園」(滋賀県)で働く小児科医、高谷清氏の「『困り感』を『感じる』」というエッセーを読んだ。
心身や知能に障害を持つ人を見ると、健康な人は自分と比較して「さぞ生活に不自由するだろう」などと想像する。
しかし、本人自身にとってはその状態が「普通で当たり前」の日常なのだ。
そこで「いや、どうもこれは普通ではないらしい」と気づいた時、特有の「困り感」が生じる。
高谷医師は、「障害の理解」とはその人の「困り感」を理解し、感じることではないか、と述べている。
これを読み、私はもう20年も前に関わっていた患者さんのことを思い出した。
統合失調症を患っていたその男性は幻聴がなかなか治まらず、仕事をやめた後、ずっと家に引きこもって暮らしていた。
幻聴さえ消えればまた仕事に戻れるはずなのに、これでは毎日がむなしいに違いない、と思った私は、その人が外来に来るたびに処方を変え、リハビリのため作業所に通うようにと促した。
そういう日々が1年も続いた頃だったろうか、ある日の診察室でその人がおずおずとこう切り出した。
「先生は私の生活が退屈じゃないかと心配してくれてるみたいだけど、その反対なのです。
いろいろな『声』が聞こえてきて、その意味を考えているうちに一日はあっという間で過ぎていきます。
私の悩みは『この気ぜわしさを何とかしてもう少しゆっくりしたい』ということなんですよ」
私はいつのまにか「仕事に追われて忙しく生活するのが普通」と考え、彼を早くそんな“普通の生活”に戻そうと焦っていた。
しかし、彼の「困り感」は、まったく別のところにあったのだ。
患者さん自身の「困り感」に寄り添おうとせず、一方的に「人間の健康な生活とはこうあるべきだ」というモデルに彼を合わせようとしていたわけだ。
「障害があるなんてかわいそうに。本当は自由に走り回りたいでしょう?」「うつ病さえなければ、世界を相手にバリバリ働きたいでしょう?」と、その人の病や障害を理解しようとしながら、私たちはいつのまにか「人間とは本来こうあるべきだ」という、単純な理想モデルを自分にも他人にも押しつけようとしがちだ。
いや、障害や病のあるなしにかかわらず、誰もが世間の期待や理想と実際の自分との間に「困り感」を抱いているはずだ。
まずは、自分自身の「困り感」に気づき、見つめること。
私もそこから始めたい。
知らない内に誰にでも心辺りのある新種の病
私もかも・・・(ーー;)
自分の価値観が 大げさなようですが変わりました。