悲劇のランナー 耐え抜きメダル…でも
2014年3月8日15時23分 朝日デジタル
1964年10月21日、国立競技場の約7万人の目は、2位で戻ってきたマラソンの円谷幸吉選手(当時24歳)に釘付けだった。
背後から英国選手が迫る。ゴールの200メートル手前で抜かれて3位に落ちた。
それでも低迷が続いていた日本陸上界にとって、戦後初のメダルだった。
シューズやウエアの性能があまり良くなかった当時、マラソンは今以上に過酷だった。
体力を温存し、後半に余力を使い切るペース配分が日本の定石。
円谷選手は違った。
1週間前に1万メートルで6位になったスピードを生かし、最初からとばした。
メダルを期待された2人、前年に世界最高記録を出した寺沢徹さん(79)と選考会トップの君原健二さん(72)でも、5キロ手前で離れたハイペース。
円谷選手は40キロまで耐えた。
60年ローマ五輪をはだしで走り、東京ではシューズを履いて連覇したエチオピアのアベベ選手から「円谷選手と68年メキシコ五輪で走りたい」と言われた。
だが手術でも腰痛は完治せず、婚約者との別れもあった。
メキシコ五輪開催の年が明けた68年1月9日、自殺した。
「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」。
遺書に記した。
円谷選手の銅メダルの後、日本は男女のマラソンで六つのメダルを獲得した。
しかし、最近2大会はメダルがない。
今年1月31日、日本陸上競技連盟会長の横川浩さん(66)が、福島県須賀川市の円谷選手の墓を訪れた。
会長の訪問は初。
20年東京五輪招致の成功を報告し、「日本の陸上を強くしたい。見守ってください」と祈った。(増田創至)
円谷選手、懐かしい東京五輪当時の活躍を想い出しました。
たしか、39年大会の国体で、寺沢選手、円谷選手と一緒に走ったと思います、
懐かしい想い出でした、
有り難うございます。
今日もお元気にお過ごし下さい。
最高のメダルを有難うって伝えたいです。
自衛隊体育学校や陸連、国民の 次もメダルをという期待が 満身創痍の円谷選手には負担になっていたと思います。
楽しく走るから 期待に応えねばの走りになってしまったのですね。彼の遺書の写しを見て 生真面目さに涙がでます。
なぜパラリンピックは 報道がすくないのだろうと思うところです。