若者のサポート、誰が?
毎日新聞 2014年03月25日 東京版
人気マンガに関連したイベントや単行本を売る書店などに脅迫状を送ったとされる、36歳の男性の公判があった。
法廷では被告が自ら書いた長文の陳述の一部が読まれ、ネットでは全文が公開されたが、その内容の深刻さに衝撃を受けた。
被告は「自分の人生は汚くて醜くて無残」と言う。
母親に「お前は汚い顔だ」と言われ父親には殴り飛ばされた。
小学校ではいじめに遭うが、大人は誰も「まともに対応してくれなかった」という。
次第に被告は「生まれた時から罰を受けている」と感じるようになり、コンプレックスに苦しみながら孤独な人生を歩むことになる。
それ以降の具体的な生活史は語られていないが、高校は地元の進学校に進んだものの、「年収が200万円を超えたことは一度もない」と言い、自らを「負け組の底辺」と称する。
この苦痛から解放されるため、自分に罰を与えた「何か」に復讐(ふくしゅう)を遂げてから自殺しようと考える中で、その「何か」として人気マンガの作者を選んでしまった、と動機を自己分析するのだ。
もちろん、どんな理由があろうとも、不特定多数の人たちを不安に陥れるような脅迫を繰り返した行為を肯定することはできない。
しかし、ここではあえて行為を切り離して考えたい。
陳述を読む限り、被告は繊細な感受性と豊かな知識を持つ人物のようだ。
その点では劣等感を抱く必要もなく、それをうまく生かして仕事に就き、友人を得ることもできたはずだと思われる。
なぜそうできなかったのか。
それは、彼が両親をはじめ、周りの大人に「あなたにはいいところがある」「大丈夫だよ」と支えられた経験を持てなかったからだ。
誰からもほめられず、受け入れられずに育つと、結果的には自分で自分を信頼することもできなくなり、被告のように「挽回する見込みのない負け組」と決めつけ、絶望のうちに生きなければならなくなる。
オリンピックでも高校野球でも、インタビューで「ここまで支えてくれた家族に感謝したい」と屈託なく語る若者がいる。
一方で、家族に否定され学校でも受け入れられずに、「なぜ生まれてきたのか」と自分を責めながら生きる若者もいるのだ。
昔のように地域の世話好きな人がそんな若者を家に招き、励ますようなこともない。
誰にも愛されることのない環境で生まれ育った子どもや若者をサポートするのは誰の役割なのか。その人たちにまで「自己責任で頑張れ」と言うのはあまりに残酷な気がする。
生涯孤独だった人でも、立派になってる人がいる
自分に甘えず頑張って欲しいです。
森永グリコ事件のように 無差別に毒を入れたものを用意して脅迫したわけでないのが救いです。
あるがままを受け入れてくれる大人に出会えなかった・・・この孤独は暗くて悲しかったのでしょうね。
罪を憎んでもすべてを裁くことはわたしたちにはできませんよね。
挫折と孤独、自分の中に溜め込んだ心の闇。
思想・行動・言動の「同一性」圧力の強い世の中、一旦異質と思われたら 暮らしにくい・・。
個性を大事にといわれながらも 個性すら持てなくなる人生って悲しくも辛いものでしょうね。
元教員として このような子を産んでしまった背景に殺伐とした思いに陥ります。