香山リカのココロの万華鏡:
断たれた人生の連続性
毎日新聞 2014年05月06日 首都圏版
先日からとても気になっているのが、「警察に保護されて名前や住所が言えず、施設などに入所する高齢者」の問題だ。
4月22日の本紙にも、自治体が介護施設に暫定入所させ「緊急一時保護」の対象となった人が、2008年度からの約6年間に少なくとも546人いたという調査結果が載っていた。
中には、その後もずっと身元不明のまま、仮の名前がつけられている人もいるという。
その人たちはどこから来たのだろう。
家族と住んだり施設に入所したりしていれば行方不明者届が出されるはずだが、何かの行き違いで出されていないのだろうか。
あるいは、それまでは何とかひとり暮らしをしていたのが、ある日、買い物か散歩に出てついに帰路や自宅の住所を忘れてしまったのだろうか。
いずれにしても、その人たちの人生の連続性は、そこでぷっつりと断たれてしまう。
子どもの頃から誰もが、「来年は野球の試合に出たい」「あと2年で大学卒業して社会人だ」「子どもが成人するまではがんばるぞ」「住宅ローン完済までついに10年を切った」などと先々に目標を定め、それに向かって努力してきた。
そして、ときどきは後ろを振り返り、自分の人生を貫く一本の道に目をやって、満足感を味わったりちょっぴり後悔したりする。
年齢を重ね、だんだん記憶力が怪しくなってきてからは、集団でそれを支えあうことができる。
クラス会で「おまえは昔、水泳が得意だったよな」と友人に言われ、自分ではすっかり忘れていたのに「あー、そうそう」と思い出すことはよくある。
さらに高齢になり認知症などの病にかかっても、家族や友人が記憶を肩代わりしてくれて「お父さんは本当に仕事人間だったね」などと言ってくれると想像したら、なんとなく安心できる気がする。
しかし、名前も住まいも忘れ、保護されて暮らす人たちの人生の連続性は、誰にも支えてもらえない。
ご近所。
檀家(だんか)になっているお寺。
子どもや孫を通わせた学校。
趣味で通っていた老人クラブ。
かつてなら、地域に誰か「あなたのことを知ってるよ」という人がいたように思う。
たとえ迷子になっても、「あなたはあの家の人じゃない」と教えてもらうこともできた。
それが今では、誰にも「あなたなんて知らないよ」と言われてしまう。
保護されている高齢者が「どこからやって来た誰なのか」がわからずに一生を終えるとしたら、それはあまりにも悲しいことではないだろうか。
自分の名前も覚えてない?
なんだかな〜
人事とは思えない・・・。