石井苗子の健康術
囚われない、偏らない
「中道」という生き方
2014年5月27日 読売新聞yomiDr.
(このまま突っ走るべきか、それとも仏のように静かに生きるべきか)
先日、BS日テレで放送された旅番組「わが心の聖地〜思いの道 願いの道〜」のロケで、京都の浄瑠璃寺に行きました。
敷地内に浄瑠璃浄土と極楽浄土が東西に一望できるお寺です。
金色の仏像が9体も連座されている本堂は圧巻でした。
副住職に「悩みごとは?」と尋ねられ、「これまでガムシャラに生きてきたが、このまま突っ走るべきか、静かに余生を送った方がよいのか、分からなくなった」と申し上げると、「中道を生きるというのはいかがですか」という答えが返ってきました。
そもそもは仏教に詳しくない私は、「中道?どっちつかずの優柔不断で?」と感じてしまったのですが、違うようです。
「中道( マディヤマー・マールガ)」は仏教用語で、極端に対立する概念に偏らないで生きること。
つまりどちらか一方の生き方をしない、ということなのだそうです。
このまま走り続けるのか、それとも静かに余生を送るべきかは、極端で対立する概念ということになります。
人間は自分で「いつまでもそこに有るもの」を勝手に決め、それに「依存」したり「固執」して生きるために、「安住」から「堕落」を起こす場合もある。
反対に、これまであったものが消えてなくなると裏切られたと感じ、「どうせいいことなんかありゃしないさ」といった「虚無感」が心を支配するようになり廃虚と化した生き方になる場合もある。
これがふたつの対立する極端な概念の例です。
私が「ガムシャラに生きて少々疲れたが、体の中にはまだエネルギーが残っているような気がする。
自分のやりたいことがこの先にまだあるのでしょうか」と質問したので、住職は「中道ではいかがか」とおっしゃったのでしょう。
もしかしたら「わたし、ほしい物が手にはいらなくなりました」と、何かに固執していたり、依存している人間だと感じられたのかもしれません。
囚とらわれない、偏らない。
これを中道という。
これは難しい悟りだと思います。
この世に存在するものはたえず変化し、連鎖を繰り返しながら存在している、死もまた変化のひとつ、と説明されるのが仏教思想なのかもしれませんが、若いころからの中道思想はないでしょう。
ひとつのことに熱中したり、偏った生き方に努力することを許されるのは、若さの特権だと思います。
それも心身の成長と認められ、仏教でいう「変化」だからでしょう。
ところが、長生きすると、肉体的成長は期待できないのに、心だけが「こうあるべき」とか「なぜ以前のようにならない」と焦るため、ストレスを抱えることになっていきます。
私の顔付きに副住職がそれを見てとられたのかもしれません。
教えはよく分かりましたが、どこかまだ腑ふに落ちないでいたのですが、次の文を発見してやっと納得ができました。
釈迦は厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても悟りを得ることができないとして苦行を捨て、断食も辞めて中道を覚ったという。
苦行やそれと反対の快楽に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。
私の場合も、どうしたらいいのでしょうなんて「依存」して聞いてないで、中道という生き方があると教えられたのだと思います。
後は、自分で適正な修行方法を見つけなさいと言われたということだと分かりました。
中道の健康術を全うしようかと思います。
これからは、静かに生きたいわ♪
教育の世界では 上田薫「相対的実践主義」といって物事の見方の柔軟性の必要を問うています。
教条主義ではなく 世の中の変化・情勢・自他の実力などで 柔軟に・・・ということです。
安倍首相は 野党党首としては優秀でも 与党・政権担当者としては失格と考えるのと同じです。