心配していた「終戦記念日」と「特別攻撃発令日」を 父は乗り切りました。
25分の低酸素脳症で 脳機能がほぼ破壊されている状態で 心臓は 乱高下はしますが 血圧・心拍を維持しています。
人工呼吸器をつけていても 自発呼吸が、15%はあるそうです。
「脳機能」の不思議さを 心拍や呼吸を感じる時に思います。
呼吸が寝息のように聞こえる時があるし、涙やよだれも 父の生命が 何かを伝えようとしているかのように感じるのです。
父は「高等小学校を卒業(今の中学2年)」後、海軍に志願し 兵曹で終戦でした。
割り当てられた任務が 一式陸上攻撃機の機銃手。
なぜ志願などしたのかと 若かりし頃 質問した時「どうせ 徴兵で召集されるのだったら 志願するしかなかった」と 戦時の空気・雰囲気について話してくれました。
一番 不条理を感じたことは・・・に対して、一番に挙げたのが 終戦時に司令部の将官・士官が 真っ先に軍需物資を横領し 逃げたことと、「死ぬこと」を目的にさせられた特別攻撃機搭乗員の葛藤でした。
一億玉砕・本土決戦をいい、兵や下士官・下級士官・予備士官(学徒出陣)に死を強要した 司令部要員が真っ先に逃げたことに怒りを覚えていたようです。
戦後の議論で一番欠けている視点です。
若者・兵に「作戦とも言えない 死を強要」した 高級幹部や士官が 責任を取らず、のちの警察予備隊・保安隊・自衛隊に入隊して 戦時の自分達の立場・責任を忘れた‣回避するような言説を繰り返したことが 下士官出としては許せなかった・・。
父も それまでの「長男は特攻にださない」という思いやりの上官から 一億総特攻を遂行する上官に変わってから 鹿児島県鹿屋基地で 一式陸上攻撃機による特攻待機隊員になりました。
死のみ目的にした特攻なのに パイロット・偵察員・機銃手・爆撃手・航空士など7名が指名され 17日の出撃待機だったそうです。
今 零戦や隼などの機体での特別攻撃という誤解が広がっていますが、赤トンボと言われた複葉機にワイヤーで爆弾を固定したり、白菊という練習機に爆弾装着したり 使用される機体が古く 飛ぶのがやっとというものが多かったといいます。
「桜花」という人間ロケット爆弾や 剣のようにベニア板製で離陸と同時に車輪が落下するものなど 戦果を期待することより「死を殉死・英霊」にするために 自殺兵器を平然と出撃させた 人間の狂気こそ 検証されなければならないと思います。
今 軍責任者の責任もきちんと検証されなければならないし、軍の責任にして 自分らの「一夜での転向」を正当化した政治家・官僚・経済界・一般国民の責任も しっかりと検証すべき時だと思います。
閣僚や政治家が 靖国神社に行くときは、「無謀な自殺を強要した時代は 二度と繰り返しません」という懺悔と決意でなければならないと思います。
敗戦を無謀にも引き延ばし 出さなくていい犠牲者を多く生んだ時代は 繰り返してはならない。
父の人生を考える時、戦争の不条理・狂気・指導部の裏切りに対して 「あんな醜い生き方だけはしない」という信念が土台になり 優しさ・思いやり・心づかい・誠実・知識・思想を形つくったのではと 息子として誇りに思います。
*父が唯一 微笑んだのが 海軍第14期予備学生であった 俳優の西村晃さん(水戸黄門役でおなじみ)のこと。
彼も特攻要員だったが、敗戦後 命令なしに零戦に奥様を乗せ 郷里に帰った、軍法会議での死刑をも覚悟して・・という逸話でした。