2014年10月27日

死を共有できる環境こそ大事

イグ・ノーベル・ドクター新見正則の日常
死を共有できる環境こそ大事
2014年10月24日 読売新聞yomiDr.

 人はみんな死にますね。
生まれた以上、誰もが逃れられない定めです。
どんなに運が良くても、どんなにお金があっても、どんな良い医療を受けても、どんな場所に生まれても、どんな生活を送っても、必ず死は訪れます。

そして、両親から受け継いだ遺伝子と育った環境で、ある程度、生きられる期間は決まっています。
いくら抗あらがっても、人それぞれに定められた時間が来れば、人は死ぬのです。

昔は自宅で亡くなっていた

 厚生労働省の人口動態統計によると平成24年の出生数は103万7231人で、死亡数は125万6359人でした。
毎年100万人以上の方が生まれて、そして死んでいます。

でも身の回りでは、生まれる人が死ぬ人よりもはるかに多いように感じませんか。
それは自宅での死亡数が激変していることも一因です。

ひと昔前は、自宅でたくさんの方が亡くなっていました。
厚生労働省の統計で、昭和30年を見ると、病院や診療所で死亡した方が約10万人で、自宅で亡くなった方は53万人となっています。

ところが平成20年を見ると、病院や診療所での死亡が93万人、一方で自宅での死亡は約15万人です。
昔は多くの方が自宅で看取みとられていましたが、最近はほとんどの患者さんが医療関係施設で最期を迎えるのです。

往診体制の確立が必要

 ですから、昔は「死」は日常の当たり前の光景でした。
そんな誰かが死ぬ光景を見て、子供は大きくなり、大人はいずれ自分が死ぬことを再確認しました
そして自宅で死ぬということは、その経過を家族が共有できます。

一方で病院で亡くなる場合は、すべての経過をなかなか体感できません。
頻回にお見舞いに行っても、所詮、死に行く過程を垣間見るのが精一杯です。

できれば、もっともっと多くの人が、特にこれからの日本を支える子供たちが、死を共有できる環境こそ、今の日本には必要だと思っています。

 そのためには、安心できる往診体制の確立が必要です。

病院でしか治療ができない状態も勿論もちろんあります。
しかし、ある程度病院での治療が終了すれば、在宅で加療を行える場合もあります。
そんなときは、多くの方が自宅での加療を安心して選択できるシステムが必要なのです。

最近は、在宅で往診の手当を増やす医療政策に移りつつあります。
そんな施策が上手うまく働くことを願っています。

 そして、万人に必ず訪れる死を真摯しんしに受け止めることはとても大切です。
そして自分の人生がより豊かな物になると思っています。

つまり死を見据えた方が、医療を受ける方も、施す方も楽ですよ。

「死」の話を普通にしよう

 僕の家族の会話で、「死」のお話は禁句ではありません。

ある日、娘にパパが死んだらお葬式にはどんな曲をかけて貰もらいたいと聞かれたときには、ちょっとビックリしました。
でも素直に、「佐渡のトライアスロンのゴールでかかっていた『ら・ら・ら』と、イグノーベル賞の受賞のきっかけになった『椿姫』、そしてお前がピアノの発表会で弾いていたあの曲」と答えました。

 同じように僕の担当する外来診療でも「死」の話は禁句ではありません。

「先生、死にたいよ」という方が来られると、「じゃ、死にますか?」なんて受け答えをすることもあります。
「いずれ僕も死ぬし、あなたも死ぬのですよ」と言うこともあります。

死ぬまで元気でいるような医療を目指しています


 昔は少しでも生きる時間を延ばすことが医療と思っていました。
でも、「死」を自分でも見つめられる年齢になり、「死」の話を普通にしていると、延命よりも日々を大切に生きることを再確認します。
そんな外来診療をやっている今日この頃でした。
病を診る医者から、ちょっとは人生を見られる、人生を応援できる医者になったということです。
 人それぞれが、少しでも幸せになれますように。


新見正則(にいみ まさのり)
帝京大医学部准教授 1959年、京都生まれ。
85年、慶応義塾大医学部卒業。
93年から英国オックスフォード大に留学し、98年から帝京大医学部外科。
専門は血管外科、移植免疫学、東洋医学、スポーツ医学など幅広い。
2013年9月に、マウスにオペラ「椿姫」を聴かせると移植した心臓が長持ちする研究でイグ・ノーベル賞受賞。
主な著書に「西洋医がすすめる漢方」 (新潮選書)、「じゃぁ、そろそろ運動しませんか?」(新興医学出版社)、「飛訳モダン・カンポウ 拾い読み蕉窓雑話」(同)など。
トライアスロンに挑むスポーツマンでもある。
posted by 小だぬき at 00:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
まさに母の死に立ち会った私
最後に息を引き取る時に握ってた手
力が抜けた時
そばに誰かがいて見守るって幸せなのかも
なので、私はジッちゃんを見張ってるのです。
Posted by みゆきん at 2014年10月27日 11:25
「見守る」「見張る」、微妙に違いますが、人気沸騰中のじっちゃんは まだまだ名言を残してくれるでしょう・・・。

難しいのは かかりつけ医がいて往診してくれている医師がいるならば 自宅で息を引き取るのが理想でしょうが、病院に通院していても 自宅死だと必ず警察が介入して検視・解剖の手続きがとられること。
防犯上 必要なのでしょうが、遺族としてはいたたまれない時間だと思います。
Posted by 小だぬき at 2014年10月27日 12:18
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