水説:「十人十色」でしょ=中村秀明
毎日新聞 2015年01月28日 東京朝刊
「寛容」を言い聞かせながら、無自覚のまま偏見にとらわれることがある。
ふと「普通だったらさあ……」とか、「普通の人は……」などと口にしてしまうのだ。
そんな時に、たしなめる友人がいる。彼女は言う。
「ちょっと、待ってください。
普通とは差別的ではありませんか?
日本には『人はみな十人十色』という言葉もあるんじゃないですか」
国際結婚で日本に来たイタリア人女性に、流ちょうな日本語で言われタジタジとなる。
3人の娘の前だと、その口調はちょっと強くなる気がする。
多様さを尊重し、ともに生きていく大切さを教えているのだろう。
異なる文化、価値観の国で暮らしてきた戸惑いや悩みが、そこには込められているようでもある。
彼女も「普通は……」と言われ、居心地の悪さや疎外感をたくさん感じてきたに違いない。
最近、自らの不寛容の足跡に出くわした。
かつて同じ取材対象を追いかけた他社の仲間が、「性同一性障害」に悩み、苦しんでいたことを知った。
23日朝刊の「ひと」欄に「性別を変えた僧侶」として載った柴谷宗叔(しばたにそうしゅく)さんである。
関西の電機・機械業界を担当する経済部記者だった約25年前、当時の松下電器産業や三洋電機、シャープ、ダイキン工業といった企業をともに取材し、抜いた抜かれたの日々をすごした。
「普通の男性」とは、ちょっと違う柴谷さんの装いや振る舞いを好奇の目で見て、本人がいない場で面白おかしく話題にしたこともある。
「性同一性障害」という言葉のなかった時代とはいえ、異なる価値観を持った存在を色眼鏡で見て差別し、苦しめていたに違いない。
70年前のきのう、アウシュビッツ強制収容所が解放された。
強制収容所は「ナチス・ドイツの蛮行の象徴」と言われる。
しかし、ナチスに限らず、流れにおされ、小さな積み重ねの末、人は蛮行に手を染め、あるいは加担せざるを得なくなるのかもしれない。
そんな象徴と受け止めるべきではないだろうか。
「ホロコースト 95歳の証人」
(25日朝刊・東京本社版ストーリー)で、生還率2・7%を生き抜いたノルベルト・ロッパーさんが未来に向けて語っていた。
「若い人には、分け隔てなく人と接してほしい。
一番大切なのは、陽気で間口の広い交流だ。敵意はなく、友情のみが生まれる」
その言葉をしっかり受け止めたい。
(論説副委員長)
こっちでも、展示してた時に行きました
人間の油で作った石鹸に衝撃でした・・。
殺されも殺しもしない 平和でありたいですね。