今日は 彼岸の入り。
明日は、弟の命日、明後日は 父の月命日。
彼岸の入りの今日、菩提寺のある水戸へ「墓参り」したいと思います。
コメント返しなど 遅くなることを ご了承ください。
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香山リカのココロの万華鏡:
止まった時間、ゆっくりと
毎日新聞 2015年03月17日 首都圏版
東日本大震災から4年が経過した。
2万人を超える死者、行方不明者に加え、その後の避難生活での体調悪化や過労など間接的な原因で亡くなった「震災関連死」も3000人を超えた。
誰かが亡くなると、必然的に「遺族」と呼ばれる人が生じる。
4人家族で1人が亡くなれば3人は遺族となる。
その計算を単純にあてはめると、大震災では7万人が「遺族」となったと考えられる。
7万人といえば、ちょっとした地方都市の人口に匹敵する。
その人たちはどんな4年間をすごしてきて、いまどんな気持ちなのだろう。
私は大震災の少し前に父を亡くしたのだが、4年もたてば記憶も悲しみも薄れるわけではないと実感している。
さすがに直後の痛みのような悲しさではないものの、季節の変わり目などにふとこの時期をともにすごした思い出がよみがえり、「もういない」とリアルに感じることもある。
老いた父を病で失ってさえそうなのだから、夫や妻、子どもを突然、奪われた人の苦しみ、悲しみはどれほどか。
今回の大震災によってではないが、わが子を失った経験を持つ女性が、3月に診察室でこんな話をしてくれたことがあった。
「この時期がいちばんつらいんです。子どもの同級生はどんどん成長して進学したり、就職したりするでしょう。
町も新生活を控えて買い物する人などであふれています。
そんな中、自分だけが前に進めない。
新しい洋服もスマホも買う気になれないから、いつまでも時代遅れのファッション、昔の携帯電話のままなのです」
大切な人を亡くしたときに時間が止まり、周囲の目まぐるしい変化をひとごとのように眺めている。
これは大きな喪失体験をした人によく起きる心の反応だ。
本人は「私だけ取り残されている、遅れてしまう」とあせりを感じるかもしれないが、私はよくこう話す。
「それは遅れなどではなく、いつまでも愛するお子さんといっしょにいたい、というあなたのやさしさのあらわれですよ」
世の中には「前進は善、停滞は悪」という考え方があり、悲しみを抱えている人にも「さあ、いつまでも泣いてないで、前を向いて元気に歩き出そう」と励ます人がいるが、それは違うと思う。
とくに愛する家族を失った遺族が、思い出とともに足踏みし、停滞を続けるのはあたりまえのことだ。
「ゆっくりね、待ってるよ」とまわりは温かく見守りたい。
(精神科医)


7年目の今でも家の中で母の声が聞こえる気がします。
おい、熱海にいこうや という 夢を時々みます。