2015年10月20日

<平和と民主主義>三國連太郎さん「人を殺すのがいやだった」

<平和と民主主義>
三國連太郎さん
「人を殺すのがいやだった」
2015年10月19日 毎日新聞

 今は亡き著名人のインタビューを再録する「もう一度読みたい <平和と民主主義>」第6回は、日本映画界を代表する俳優の三國連太郎さん。
安保関連法議論の途上では、徴兵制導入の不安が国民の間に広がった。
兵士になること、銃をとることとは。
戦中徴兵を忌避した経験を持つ三國さんが語っている。

<1999年8月13日 
     東京本社夕刊2面から>

 徴兵を忌避して逃げたものの、見つかって連れ戻され、中国戦線へ。
しかし人は殺したくない。
知恵を絞って前線から遠のき、一発も銃を撃つことなく帰ってきた兵士がいる。
俳優・三國連太郎さんは、息苦しかったあの時代でも、ひょうひょうと己を貫いた。
終戦記念日を前に、戦中戦後を振り返ってもらった。

−−とにかく軍隊に入るのがいやだったんですね。  

▼暴力や人の勇気が生理的に嫌いでした。
子供のころ、けんかしてよく殴られたが、仕返ししようとは思わない。
競争するのもいや。旧制中学で入っていた柔道部や水泳部でも、練習では強いのに、本番となると震えがきてしまう。
全く試合にならない。それから選抜競技に出るのをやめました。

 −−どうやって徴兵忌避を?  

▼徴兵検査を受けさせられ、甲種合格になってしまった。
入隊通知がきて「どうしよう」と悩みました。
中学校の時に、家出して朝鮮半島から中国大陸に渡って、駅弁売りなどをしながら生きていたことがある。
「外地にいけばなんとかなる」と思って、九州の港に向かったのです。
ところが途中で、実家に出した手紙があだとなって捕まってしまったのです。

 「心配しているかもしれませんが、自分は無事です」という文面です。
岡山あたりで出したと思う。
たぶん投かんスタンプから居場所がわかったのでしょう。
佐賀県の唐津で特高らしき人に尾行され、つれ戻されてしまいました。

−−家族が通報した、ということでしょうか。  

▼母あての手紙でした。
でも母を責める気にはなれません。
徴兵忌避をした家は、ひどく白い目で見られる。村八分にされる。おそらく、逃げている当事者よりつらいはず。
たとえいやでも、我が子を送り出さざるを得なかった。
戦中の女はつらかったと思います。  

−−兵役を逃れると「非国民」とされ、どんな罰があるかわからない。
大変な決意でしたね。  

▼徴兵を逃れ、牢獄(ろうごく)に入れられても、いつか出てこられるだろうと思っていました。
それよりも、鉄砲を撃ってかかわりのない人を殺すのがいやでした。
もともと楽観的ではあるけれど、(徴兵忌避を)平然とやってしまったのですね。
人を殺せば自分も殺されるという恐怖感があった。  

−−いやいや入ったという軍隊生活はどうでした?  

▼よく殴られました。突然、非常呼集がかかって、背の高い順から並ばされる。
ところが僕は動作が遅くて、いつも遅れてしまう。
殴られすぎてじきに快感になるくらい。

演習に出ると、鉄砲をかついで行軍します。
勇ましい歌を絶唱しながら駆け足したり、それはいやなものです。
背が高いので大きな砲身をかつがされました。
腰が痛くなってしまって。
そこで仮病を装ったんです。  

−−どんなふうに?  

▼毛布で体温計の水銀の部分をこすると、温度が上がるでしょう。
38度ぐらいまでになる。
当時、医者が足りなくて前線には獣医が勤務していました。
だからだまされてしまう。
療養の命令をもらって休んだ。

また原隊復帰しなくてはいけない時に、偶然救われたのです。
兵たん基地のあった漢口(今の湖北省武漢市)に、アルコール工場を経営している日本人社長がいた。
軍に力をもっていたその社長さんが僕を「貸してほしい」と軍に頼んだのです。
僕はかつて放浪生活をしていた時、特許局から出ている本を読んで、醸造のための化学式をなぜか暗記していました。
軍から出向してその工場に住み込み、1年数カ月の間、手伝いをしていた。
そうして終戦になり一発も銃を撃たずにすんだのです。  

−−毛布で体温計をこするとは、原始的な方法ですね。  

▼もっとすごい人もいました。そのへんを走っているネズミのしっぽをつかまえてぶらぶらさせたかと思うと、食べてしまう。
「気が狂っている」と病院に入れられましたが、今ではその人、社長さんですから。

 −−前線から逃げるため、死にもの狂いだったのですね。  

▼出身中学からいまだに名簿が届きますが、僕に勉強を教えてくれた優しい生徒も戦死していて……。
僕は助かった命を大切にしたいと思う。
そう考えるのは非国民でしょうか。  

−−三國さんのお父様も、軍隊の経験があるそうですね。  

▼はい。シベリアに志願して出征しました。
うちは代々、棺おけ作りの職人をしていました。
でも差別があってそこから抜け出ることができない。
別の職業につくには、軍隊に志願しなくてはならない。
子供ができて生活を安定させるため、やらざるを得なかったのでしょう。
出征した印となる軍人記章を、おやじはなぜだか天井裏に置いていた。
小さいころ僕はよく、こっそり取り出してながめていました。  

−−なぜ天井裏に置いていたのでしょう。  

▼権力に抵抗する人でしたからね。
いつだったか下田の家の近くの鉱山で、大規模なストがあって、労働運動のリーダーみたいな人を警察がひっこ抜いていったのです。
おやじはつかまりそうな人を倉庫にかくまっていた。

おふくろはその人たちのために小さなおむすびを作っていました。
またいつだったか、気に入らないことがあったのでしょう、おやじは駐在所の電気を切ったりしていた。
頑固で曲がったことの嫌いな人でした。

−−シベリアから帰ってから、どんな職業に?  

▼架線工事をする電気職人になりました。
お弟子さんもできた。
おやじは、太平洋戦争で弟子が出征する時、決して見送らなかった。
普通は日の丸を振って、みんなでバンザイするんですが。
ぼくの時も、ただ家の中でさよならしただけ。
でも「必ず生きて帰ってこい」といっていました。  

−−反骨の方ですね。  

▼自分になかった学歴を息子につけようと必死でした。
僕がいい中学に合格した時はとても喜んでいた。
ところが僕が授業をさぼり、家出して、金を作るため、たんすの着物を売り払ったりしたから、すっかり怒ってしまって。
ペンチで頭を殴りつけられたり、火バシを太ももに刺されたりしました。
今でも傷跡が残っています。
15歳ぐらいで勘当され、それから一緒に暮らしたことはありません。

−−終戦後はどんな生活を?  

▼食料不足でよく米が盗まれ、復員兵が疑われました。
台所まで警察官が入って捜しにくる。
一方で、今まで鬼畜米英とみていたアメリカ人にチョコレートをねだっている。

みんなころっと変わる。
国家というのは虚構のもとに存在するんですね。
君が代の君だって、もっと不特定多数の君なのではないか。
それを無視して祖国愛を持て、といわれてもね。  

−−これからどんな映画を作りたいと思いますか。  

▼日本の民族史みたいなものを作りたい。
時代は戦中戦後。
象徴的なのは沖縄だと思います。
でも戦いそのものは描きたくない。
その時代を生きた人間をとりまく環境のようなものを描こうと思う。
アメリカの戦争映画も見ますが、あれは戦意高揚のためあるような気がします。
反戦の旗を振っているようにみえて、勇気を奮い起こそうと呼びかけている。

 ◇国家とは不条理なものだ  

三國さんは名前を表記する時、必ず旧字の「國」を用いる。
「国」は王様の「王」の字が使われているのがいやだ、という。
「国というものの秘密が、そこにあるような気がして」
 「国家というのは、とても不条理なものだと思う」と三國さんはいう。
確かにいつも、国にほんろうされてきた。
代々続いた身分差別からすべてが始まっている。
棺おけ作りの職業にとめおかれていた父親は、全く本意ではなかったろうが、シベリア出兵に志願して国のために戦った。
そうして初めて、違う職業につくことを許された。

この父との確執が、三國さんの人生を方向づけていく。

 学歴で苦労した父は、息子がいい学校に入ることを望んだ。
しかし期待の長男・連太郎さんは地元の名門中学に合格したまではよかったが、すぐドロップアウトしていく。
三國さんは「優秀な家庭の優秀な子供がいて、その中に交じっているのがいやだった。自信がなかった」という。

 時代も悪かった。中学には配属将校といわれる職業軍人がいた。
ゲートルを巻いての登校を義務づけられ、軍事教練もあった。

 学校も家も息苦しい。だから家出した。
中学2年のことだ。
東京で、デパートの売り子と仲良くなって泊めてもらったこともある。
中学は中退してしまう。
父は激怒した。
中国の放浪から帰ってきた時、勘当された。

家の近くのほら穴で「物もらいと一緒に寝起きした」という。
道ですれ違おうものなら、父は鬼のような形相で追いかけてきた。
 その後、三國さんが試みた徴兵忌避は、不条理な国に対する最大の抵抗だった。
後ろめたさはない。
圧倒的多数が軍国主義に巻き込まれていく中、染まらずにすんだのは、「殺したくない」という素朴な願いを持ち続けたためである。
 「国とは何なのか、死ぬまでに認識したい。
今はまだわからないが、いつもそれを頭に置いて芝居を作っている」と三國さんは話している。【山本紀子】  

◇三國連太郎さん略歴  
みくに・れんたろう。
本名は佐藤政雄。
1923年群馬県生まれ。
電気職人だった父の転勤で静岡県へ。
旧制中学の時に大阪に家出、皿洗いや塗装工など職を転々とする。
中国や朝鮮にも渡り、放浪生活をした。
43年に徴兵で再び中国に向かい、46年引き揚げ。
50年東京でスカウトされ翌年、木下恵介監督「善魔」の主役に登用される。
主役の記者が「三國連太郎」だったため、これを芸名とする。
「飢餓海峡」「復讐するは我にあり」「釣りバカ日誌」シリーズなど170本近い映画に出演。自ら監督した「親鸞・白い道」は87年カンヌ映画祭審査員特別賞。

◇その後の三國さん…

己を貫いた役者人生でした
 三國連太郎さんは2013年4月14日、急性呼吸不全のため90歳で亡くなった。
その一生は波乱に満ちていた。
1972年から38年間、三國さんを撮り続け、写真集「三國連太郎の器」を出版した写真家、信太一高(しだ・いっこう)さん(69)=栃木県那須町=は「三國さんには、役者以外の人生は似合わないなあ」と懐かしむ。

 出会いは三國さん49歳、信太さん25歳の時。
共通の知人から「スナップ写真を撮ってほしい」と頼まれたのがきっかけ。
「これほど顔がしょっちゅう変わる人はいない」とほれ込み、撮影者として、友として長い時間を過ごし、時にはほぼヌードに近いショットもファインダーに収めた。

 信太さんが聞いた戦時中のエピソードはこうだった。
 配属された先で、三國さんは「酒(どぶろく)をつくることが出来ます」と手を挙げ炊事担当になった。
「本当に作れたのかもしれないし、炊事係なら鉄砲を持たずに済むと考えたのか、あるいは食べ物に近いと思ったのか。
今となっては確認するすべもありませんけどね」と笑った。

飢餓状態の時には「流しの残飯を食べた」とも聞いたという。
 「三國さんは戦いが嫌いだった。
銃を撃つことなく、正確には一度銃を撃ったが不発だったので、人を殺すことなく戻ってきた」。
 信太さんの中には、折々に聞いた三國さんの言葉が刻まれている。
その一つは「人間は自分の器の中で生きていくしかない」。
書が趣味だった三國さんが「器」という字を書いている時に、「器とは」と問うた。
「自分」と返ってきた。
「その器から飛び出した時には」とたたみ込むと、「それは死ぬ時」。
三國さんは淡々と答えたという。

 三國さんが若くして老け役を演じる際に、自分の歯を抜いたことは余りにも有名な話だが、通じる場面を信太さんが目撃した。
ある時、三國さん宅に遊びに行くと、三國さんが火鉢にあたっていた。
当時は映画「利休」の撮影期間中だった。
「びっくりしましたよ。家の中でも利休をやっていたんだから。
三國さんは自分がこうと思ったら、それを貫く人でした」。
どんな苦境の時代にも自分を貫く強さに、勇気をもらえる人は多いに違いない。
            【平野美紀】
posted by 小だぬき at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大抵の人は人殺しにはなりたくないはず
でも国の命令
戦争を経験した人の中に、1人も犠牲者を出さなかった
そして生きて帰った
ある意味、立派です
Posted by みゆきん at 2015年10月20日 11:58
国や世間の雰囲気が「戦争に傾く」状態での非戦は、家族をも「非国民」とされる危険が大きいです。
三国さんの行動には賛否が分かれる所ですが、皆が皆、非戦・反戦で徴兵忌避できれば もっと早く敗戦できたことと思います。
大本営勤務の将校・参謀本部・軍令部の将校、現地部隊の幕僚の死亡率と 彼らの無謀な作戦で亡くなった兵卒の死亡率を比較しても 明らかだと思います。

敗戦後、自分の保身のために 軍記を出版し、戦死者に謝罪するどころか 「軍神」「愛国者」として描き
自分が戦後生き残ったことの免罪符にした、高級指揮官や現地司令官。
何時の時代も 弱者を犠牲にして平然としているのが日本の指導層。
Posted by 小だぬき at 2015年10月20日 14:28
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