日本の「最貧困地域」
再生で見た甘くない現実
「西成特区構想」を率いた
経済学者の奮闘
2016,11.13 東洋経済オンライン (中村 陽子)
大阪・西成「あいりん地区」。
ピカピカの超高層ビル「あべのハルカス」の足元、縦横1キロメートルの狭い三角地帯に、日雇い労働者、ホームレス、生活保護受給者、そして地元住民と2万人が密集する。
これまで勃発した暴動の数24回。
3人に1人が生活保護を受け、結核罹患(りかん)率は全国平均の28倍という世界最貧国並みの高さ。
少子高齢化、貧困、治安、衛生、差別など社会問題が凝縮し衰退が進む地域の、まさに近未来像を一変させるべく、橋下徹前大阪市長が「西成特区構想」の大号令を発した。
その陣頭指揮を託されたのが、学習院大学経済学部教授の鈴木亘氏だ。
『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』にはその奮闘が記されている。
衰退しきったどん底のスラムから
──2012年に着任されたときはどんな状況でしたか。
どん底でしたね。ホームレスがあふれ、不法投棄ゴミが散乱し、昼から酒飲んで立ち小便してる。
町全体が臭気のドームでした。
すべての社会問題を放り込んで、フタしてグツグツ煮えたまま放置されてる、まさに闇鍋状態。衰退しきったスラムでした。
大阪万博を機に日雇い労働市場として発展してから50年近く経ち、みんな年取って暴動起こす元気がないだけ。
人も減って簡易宿泊所や飲食店は廃れていく。
意味、暴動がバンバン起きていた時代より問題は根深かったとも思いますね。
──そもそもあいりん地区が“闇鍋”で放置されてきた背景とは?
官も民も、地域内が利害関係者だらけと言っても過言じゃない。
支援者組織、労働組合、普通の町内会、商店会に暴力団関係まで、とにかくあらゆる組織がせめぎ合っている。
大阪市側も福祉局あり建設局ありその他各局バラバラに入ってそれぞれの利害だけで動いてる。
地域の象徴である「あいりん総合センター」という一つの建物内に国・府・市の管轄が混在する。
要するに収拾がつかなくて、行政も避けて通ってきた。
一人ひとりと向き合って、地道に合意形成をしていかないと何かの弾みで暴発しかねない状態でした。
──実際、本全体の8割が改革会議本番に向けた地域の根回しや、対役所工作の赤裸々な逸話です。
貧困者対策、不法投棄ゴミ問題、結核、治安対策など喫緊の課題解決と、観光や教育、町の活性化、子育て世代呼び込み策。
痛みを伴う構造改革と、明るい将来像という両極を同時進行で議論していきました。
ただ、改革の中身以上にどう実行するかが重要と考えていました。
本番の「あいりん地域のまちづくり検討会議」の前に、各組織へのドブ板行脚、顔見世興行に飛び回った。
地域の事情に明るく、同じ思いの同志“7人の侍”で結束し、役所に都合のよいようにさせない、地域が長年望んできたボトムアップによる町づくり改革をねじ込んでいく準備を重ねた。
行政と住民との仲は最悪でしたが、協力してプレーパークを作るとか合同会社を立ち上げるとか、町の改善の一歩となるような小さな成功体験を積み重ねていきました。
お互い意思疎通できるようにしとかないことには何も始まりませんから。
お役所と地域住民のハブ役に徹して
──役人懐柔策、彼らが動く論理・動かない論理を知り尽くしての作戦の数々が、面白かったです。
そう、結果的に物語の相当の部分が対役所工作の話になりましたね。
日本の行政ってデカいしやっぱりすべての中心。
地域だけで大改革は進まない。
いかに行政を絡ませるか、巻き込むか。
むしろ行政を主役にして動かすくらいのことをやらなきゃいけない。
だけど民間の活動家たちにその発想はなかった。
そもそも地域住民の合意を取らずに日雇い労働市場を町に固定させたのが行政。
行政代執行や強行策が繰り返されてきた歴史に、今直面している問題の元凶はすべて行政にある、という怨念が地域に渦巻いていた。
行政は行政でこの町の合意形成など不能だと思っている。
今回は行政と住民を絡めた改革にすることが最重要だったので、両者のハブ役に徹しました。役人を動かすため、時に華を持たせたり、貸し借り関係を作ったり損得勘定に訴えたり、黒子に徹して出世に一役買ったり便宜を図ったりと、あの手この手。
自分が間に入ってリスクは取る責任も取ってやる、だから動けと。
──そしてついに、半年間計6回の検討会議本番にこぎ着ける。
立場を異にするリーダーたちが一堂に会するのは、あいりん史上初だったとか。
無関心層や反対派にこそ参加を呼びかけ、全町内会長、労働団体にひざ詰めで参加を依頼しました。
綱渡りで大変だったけど、傍聴人も含め毎回約200人余りが参加し、やって本当によかった。
行政がやると、自分たちの意に沿う人物だけ集めてオーソライズ(公認)してもらい、反対集団の怒声にはひたすら頭を下げて鳴りやむのを待ち、ちゃっかり議会に通して再生事業を強行するわけです。
でもこの地区に限っては、もう全員集めてみんなで話し合おうと。
最初は案の定、怒声・罵声が飛び交う大混乱でしたが、回を追うごとに何とか道筋ができみんな乗ってきて、最後はまとまった。
やっぱり賛成派も反対派も様子見派も、みんな集まって話し合うのが民主主義の原点ですから。
活動家らは距離が近すぎるとヤジを飛ばしにくいらしい
──会議をかき乱す活動家対策ではいろいろ奇策も飛び出しました。
体育館を会場とした会議は完全な開放型で、35人の委員たちは傍聴席に囲まれてグループごとに議論していくのですが、活動家の怒声に委員が萎縮して議論に入れなかったりしたときは、私が傍聴席に上がっていってレクチャーしたり質問に答えたりして場を収めました。
ある回では傍聴席を最前列、委員席を後ろと逆にしたんです。面白いもので、活動家らは距離が近すぎるとヤジを飛ばしにくいらしく、委員たちをドツくのも首を後ろにひねってではやりにくい。
おかげで静かに進行できました。
回も最後のほうになると、傍聴席で騒いでた連中も話し合いの輪に取り込まれていき、単に妨害したいだけの連中にはほかの傍聴人から「オマエら邪魔だ」と声が飛んで、小さくなっていた。
重要なのは意見する場を反対派にも作ったこと。
みんなで決めたことだ、後になってから騒ぐな、と言える。
──でもその後、肝心の橋下さんは市長を降りてしまいましたが。
もちろん、改革は継続せざるをえないよう舞台装置を整えておきました。
上からの号令方式だと、上が代わるやこれ幸いと手抜きしてしまう。
だから下の役人から考えさせて下からの積み上げで全部やらせる形を仕込んだ。
住民と共同でやる事業もたくさん作っといたので、途中で「イチ抜けた」はできない。
だから橋下さんが辞め私が去った今も、改革は着々と進行中です。
古汚い一大ドヤ街のイメージも10年後くらいには変わっているだろうと思います。