土方歳三はなぜ、戦い続けたのか
PHP Online 衆知(歴史街道) 11/25(金) 19:10配信
歴史街道編集部
明治2年5月11日(1869年6月20日)、箱館戦争において、土方歳三が戦死しました。
榎本武揚が総裁の箱館政権の陸軍奉行並であり、何より新選組副長として知られます。
土方は新選組局長近藤勇が新政府軍に捕らわれ、板橋で処刑された後も、宇都宮、会津、仙台、箱館と転戦し、戦い続けました。
なぜ土方は戦い続けたのか、その理由を探ってみます。
土方歳三について、「滅びの美学」と評する人もいます。
また、幕臣として、前将軍徳川慶喜のために戦い続けたと語る人もいますが、果たしてそうなのでしょうか。
土方だけでなく、新選組をして「滅びの美学」と評する人もいます。
滅んでいくものに対し、ある種の美しさを見出す日本人の感性を指すもので、これは土方当人の問題ではなく、土方や新選組を日本人がどう見るのかという問題でしょう。
従って土方に「滅びの美学」を感じるか否かは、見る人次第ということになりますが、私が感じるのは、「滅びの美学」というレッテルを一度貼ってしまうと、多くの人はそれでわかった気になって、彼らが何を思い、何をなそうとしていたかを直視しなくなりがちだということです。
それでは、土方がなぜ戦い続けたのかは、よくわからないでしょう。
一方、土方が前将軍徳川慶喜のために戦い続けた、というのはどうでしょうか。
確かに近藤、土方以下、新選組隊士は幕臣にとりたてられていますから、主君は徳川将軍となります。
しかし、自ら政権を手放し、鳥羽・伏見の戦いでは家臣らを置いて自分だけ江戸に逃げ帰り、さっさと恭順した慶喜のために、さして縁もない土方が戦い続けるでしょうか。
そうした「建て前」に、人は命を賭けられないのではと思います。
また、慶喜が恭順しているのならば、家臣も恭順するのがむしろ主君のためです。
しかし、土方は戦い続けました。
なぜ、恭順を潔しとしなかったのか。
一つに、王政復古の大号令、小御所会議、そして鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が朝敵とされるまでの流れが、薩長の謀略によって行なわれた事実です。
政治的寝技で「賊軍」のレッテルを貼られたことに、幕府側の人間が憤激し、納得できないのは当然でした。
そしてもう一つ、土方が戦い続けた理由の最大のものと私が考えるのは、近藤勇の捕縛と処刑です。
甲州での敗北の後、下総流山で一隊を組織し、再起を図ろうとしていた近藤・土方は新政府軍に包囲され、近藤は自ら新政府軍本営に出頭、その間に土方以下を脱出させました。
新政府軍に包囲された時、切腹しようとする近藤に土方は、
「今死ぬのは犬死であり、幕府歩兵頭・大久保大和が、諸方の歩兵をとりまとめるため出張していると言えば申し開きはできる」と説得、近藤も承知し、本営に出向くという土方を制して、自ら出向いたのです。
しかし、新政府軍本営で、大久保大和は新選組局長近藤勇であることが露見。
土方は江戸に潜入して勝海舟や大久保一翁に近藤救出を嘆願しますが叶わず、近藤は慶応4年(1868)4月25日、板橋宿の馬捨場で、切腹することも許されず、罪人として斬首されました。
土方は宇都宮の戦いを経て会津に入り、閏4月、会津若松の天寧寺に近藤の墓碑を建立しました。墓碑に刻まれた法名は「貫天院殿純忠誠義居士」。
会津藩主・松平容保〈かたもり〉が授けたものといわれます。
自ら建てた近藤の墓碑の前で、土方は何を思っていたでしょうか。
流山で近藤を本営に赴かせていなければ、そして近藤の望む通り、切腹させてやっていれば、せめて縄目の恥辱を受けずに済んだのではなかったか…という悔恨とともに、激しい憤りがあったはずです。
近藤を新選組局長と知りながら、武士としての切腹ではなく、罪人として斬首したということは、新政府軍は新選組を武士として遇さず、その誇りを泥足で踏みにじったに等しい。
これは幕末に命がけで任務に当たった新選組を根底から否定するものであり、新選組副長として断じて許せるものではない。
もし自分が敵に降伏するようなことがあれば、それは新選組の否定を自ら認めることになる。
それでは新選組を信じ、あるいは厳しい隊規に則って命を落としてきた多くの隊士たちにも顔向けができない。
近藤と新選組のためにも、自分が降伏することはあり得ない。
土方がそう考えても、不思議ではないと思うのです。
そしてそうであれば、斎藤一が恩義のある会津と最後まで一緒に戦うというのに対し、土方はそれを認めつつも、自分はさらに北を目指したのは、会津とともに降伏するわけにはいかないという思いがあったからではなかったか。
明治2年5月11日。新政府軍による箱館総攻撃が始まります。
五稜郭の旧幕府軍側もそれを予期しており、土方は額兵隊二小隊を率いて、一本木関門に向かいました。
そして伝習士官隊と合流すると、反撃を命じます。
土方は蝦夷地ではただ一人負け知らずの常勝将軍でした。
やがて浮き砲台となって箱館湾で戦っていた幕府軍艦回天が陸上の敵から攻撃を受けると、土方は乗組員の五稜郭への脱出を援護、その後、一本木付近で銃弾を受け、土方は戦死しました。
享年35。
榎本武揚ら五稜郭の首脳陣が降伏するのは、それから一週間後のことです。
幹部の中で土方は一人、ついに降伏をせず、自らの身をもって新選組の誇りを守ったといえるでしょう。
<小だぬき>
*私が新撰組にシンパシーを感じるようになったのは、司馬遼太郎さん原作の「燃えよ剣」のテレビドラマでした。確か栗塚旭さんが 土方歳三役でした。
当時、中一だった私は「組織と個人」の葛藤と最後まで「自らの義」を貫いた新撰組隊士と土方歳三に憧れました。
「お前は妥協や空気を読むことをしない」民間企業では生き抜いていけない、ある程度身分保障される公務員でなければ勤まらないと 小学校免許習得の1年間をサポートしてくれた父に感謝しています。日教組・全教・共産党・選挙事務局などでの組織の建前と本音に翻弄された32年間の教員生活。
原則原理を守り 中央からストライキ準備指示が出た時、執行委員として「ストライキの意義や政治ストライキの批判には 国民の生活を守ると対峙する」と各分会に訴えたら、スト前日にストライキ中止指示を出した党員執行部は 私に「トロッキスト、過激派」のレッテルを貼ってくれました。
新選組を半ば騙した勝海舟にも近藤の命乞いの手紙を書かせたのは土方歳三なればこそでしょう。
司馬史観が作り上げた「滅びの美学」とは全く違う土方歳三像の真実は後世になっても解明できていませんが、少なくとも新選組隊士92名(仙台から入隊した桑名藩や伝習隊出身者を含む)が明治時代になっても誰一人土方歳三を悪く言う人は皆無です。
函館政府軍の重要人物でただ一人戦死したのが、彼が函館の地で求めていたものがはっきりしないのが残念ですねー。
まり姫さんへ
新撰組については 壬生浪から新撰組への過程で謀略説がありますが 試衛館出身者は 役職は役割分担の1つ、人間関係は 任務以外では仲間という気持ちが強かったようです。土方歳三は「局中法度」では 厳しい要求を可していますが、いつも戦闘では 指揮官先頭の原則を守り戦ったようです。隊士に対しても 混乱の京での戦闘組織の編成ですから 法度以上に人間的な魅力は欠かせません。
彼の蝦夷地までの転戦の記録も「ムダ死にはしない、させない」と戦術は多用に展開し味方の被害を最小にしています。
また 函館攻防戦では 町民ら住民被害を出さぬように戦場を選択しています。
謀略で官軍になった薩長軍には厳しくとも 味方や住民には 自分をさらけ出して 被害を出さぬように配慮しています。
だからこそ 隊士や藩士が土方に魅力を感じ 軍を統率できたのだと思います。
彼の生き方は 時代が違っても通じる「誠」があると信じています。
薩長出身の軍参謀・指揮官が 部下に消耗戦を強いた太平洋戦争。消耗品のように人命を軽視した特攻など。戦後は自己弁明やアメリカ占領軍に媚びた軍指導者達。
今の長州の総理に 土方歳三は仏界で何を思っているのでしょうね。
若き日の土方の女癖の悪さにショックを受けたものの、後半の義の為か意地の為かわかりませんが、闘い続ける姿に熱くなった覚えがあります。
「新撰組始末記」「新撰組血風録」「燃えよ剣」の土方歳三の姿に 安保闘争・ベ平連・学生運動を担った世代が影響を受けたのは確かだと信じます。