「戦後」を歴史としてみる
毎日新聞2016年11月21日 東京夕刊
第二次世界大戦終結から70年の節目だった昨年を経て、既に戦後71年が過ぎた。
それにしても、この「戦後」という区切りはいつまで有効なのだろう。
筆者自身、数年前に「のんべんだらりと続く『戦後』としか現在をとらえられない」問題について書いたこともあるが、代わりにこれといった指標は見当たらない。
手がかりになる本が出た。近現代日本史を専門とする成田龍一さんの『「戦後」はいかに語られるか』(河出ブックス)だ。
「いま、私たちは、大きな転換期に遭遇している」との認識のもと、「耐用年数が過ぎたにもかかわらず『戦後』に負ぶさる姿勢と、『戦後』を無きものにしようとする動き」の両者に対抗し、「戦後」を歴史としてとらえようと試みている。
前提は二つある。
一つは、いま「『戦後』の歴史がある決定的な地点を越えてしまった」という見方だ。
これは2011年の東日本大震災と「そこでの不安をもとに誕生した現政権」により、「これまでとは異なる光景」が広がってきたとの状況把握からきている。
3・11の原発事故は世界史的な意味を持ち、「戦後レジームからの脱却」を唱える政権は、戦後に培われてきた思想や制度、それをめぐる議論までをも「消去しようと」していると著者は述べる。
もう一つは世代の交代だ。
いまや戦争経験者の子供の世代=戦後第1世代に続き、孫の世代=戦後第2世代が台頭している。
この戦後第2世代は「先行する世代とはまったく異なった世界観や社会認識を有し」、新しい感覚を提示するようになったという。
こうした前提に立ち、成田さんは戦後に関わるさまざまな議論や文学作品を紹介しつつ、戦後を歴史として語るための「文法」を探っていく。
分かりやすい単純な答えが用意されているわけではないが、興味を引かれた点を挙げてみる。
国家などの「公」と個々の「私」との関係が戦後たどった変化について、著者は政治学者の藤田省三や作家の小田実らの考察を通して描く。
それは、日本人が「戦時の国家への献身から反転して」「私生活第一主義」に向かうところから始まった。
藤田によればこの「私生活の擁護」は「憲法によって基礎づけ」られたもので、1960年の「六〇年安保闘争」でも示され、肯定的に評価された。
70年代にかけてベトナム反戦運動で活躍した小田はさらに徹底し、「『私状況』優先の原理」を戦後民主主義の基礎を成すものととらえた。
だが同時に、同じ原理が「戦争責任を曖昧にし、『公状況』に無関心の風潮をもかたちづくった」と指摘した。
さらに、80年代に「公と私」の関係が大きく転換していったことが、仏文学者の海老坂武さんらの著作を通し記される。
それは公の思想が後退し、個人主義や相対主義が浮上するという形で表れた。
そして現在、戦後第2世代にとっては「新自由主義経済のもとで『私』と『生活』が崩れ去る」事態が出発点になっていると成田さんは書く。
貧困が切実な問題になった状況を指している。
新自由主義の政策推進により、「家族や地域社会などをはじめとする中間組織・団体が崩壊し、『私』がむき出しのまま、『公』(世界)に対峙(たいじ)することともなっている」。
まさに「『戦後』後」の新たな事態だ。
そうした中で、昨年夏の安保法制反対運動に見られた「若い世代を含む集団的な行動」が重視される。
歴史としての「戦後」像、戦後に代わる枠組みはまだ明らかでない。
とはいえ「あの戦争」を基準に積み重ねられたものの有効性が薄れ、全く違った局面に入っているのは確かだ。
目を凝らし、読み解く「文法」を編み出さねばならない。
【大井浩一】