2017年01月13日

<円谷幸吉>国民の心打った英雄

<円谷幸吉>国民の心打った英雄
2017年01月09日月曜日 河北新報

 戦後最大のイベント、東京五輪が生んだ英雄、円谷幸吉が亡くなって五十回忌を迎えた。
27年の短い生涯を駆け抜けた円谷の姿はわれわれに何を残すのか。(宮田建)

◎今に生きる/駆け抜けた27年の生涯
 冬の風物詩、東京箱根間往復大学駅伝。
陸上の長距離走に親しむ者なら誰もが憧れる舞台だ。
今年、精鋭たちを率いた監督20人のうち5人までが福島県出身者だった。
 駒大の大八木弘明(会津若松市出身)、東洋大の酒井俊幸(石川町出身)、早大の相楽豊(郡山市出身)、日大の武者由幸(相馬市出身)、国士舘大の添田正美(須賀川市出身)。

 ランナーに目を向ければ、往路4区で須賀川市出身の阿部弘輝(明大1年、学法石川高出)が疾走した。
 長距離と福島。
関係性を考えていくと、ある人物の姿が浮き上がってくる。

<地元に夢引き継ぐ> 円谷幸吉(1940〜68年)。

1964年東京五輪のマラソン銅メダリストで生まれと育ちが須賀川市。
メキシコ五輪が行われる68年の1月9日、所属する自衛隊体育学校(東京都練馬区)の宿舎で右頸(けい)動脈をカミソリで切り、自死した姿で見つかった。
 時に、「明」よりも「暗」を強調される選手でありながらも、地元にはスポーツ少年団「円谷ランナーズ」や「円谷幸吉メモリアルマラソン大会」があり、第2の円谷を育てようという夢が引き継がれている。
 箱根を走った阿部はここから巣立った。

地元の岩瀬郡市陸上競技協会理事長の本田実(65)は「(阿部が箱根駅伝を走り)階段を一つ上ることができた。
いつか五輪選手が出ればうれしい」と感慨深げだ。

 なぜ、円谷の名は半世紀たった今も色あせないのか。
瀬古利彦や有森裕子らはどうして生家や菩提(ぼだい)寺にまで足を運び、冥福を祈るのか。  

時計の針を68年に戻す。
社会全体は騒然としていた。
ベトナム反戦運動が国内外で高まりを見せ、全共闘が生まれて大学紛争が激しさを増した。
この年、日本は国民総生産世界2位の経済大国になる一方で、公害や交通戦争など高度経済成長のひずみも顕在化した。
 いわば「時代の転換点」での円谷の死だった。

<栄光のメダル重く>
 遺体発見時、都内在住だった姉、岩谷富美子(82)は小さな子をおぶって親族で一番に駆け付けた。
6男1女の末っ子幸吉とは6歳違い。
最愛の弟の頬を両手で包み込み、「泣きながらさすった時の冷たさを今も覚えている」。
それは、頼れる人がいなかった円谷の心に触れた、ともいえる。

 当時の河北新報は円谷の死をこう伝えた。
見出しは「重かった栄光のメダル」「故障続きにあせり?」。
東京五輪で国立競技場を埋め尽くした7万5000の大観衆の中、英国のヒートリーに抜かれ3位に後退。
レース後、「4年後のメキシコ大会を目指す」と国民に「約束」したことで、かえって円谷は呪縛に陥ったのか。
 期待の重圧に敗れ去っていく選手は、過去にも今にもあまたいる。
しかし、円谷は想像もできないほどの栄光を極め、やがて誰も経験したことのない挫折感に打ちのめされた。
人はそのことを知っている。
だからこそ、あの「遺書」に胸を締め付けられ、涙する。(敬称略)

■円谷幸吉の遺書全文
【親族宛て】 (1枚目)
父上様 母上様 三日とろゝ美味しう ございました、
干し柿 もちも美味しうござい ました、
敏雄兄、姉上様、おすし美味しうござい ました、
勝美兄姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しう ございました、
巌兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しう ございました、
〓久造兄姉上様、ブドウ液、養命酒美味しう ございました、又いつも洗濯ありがとうございました、
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き 有難とうございました、モンゴいか美味しうござい ました。
正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳
(2枚目) ありませんでした、
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、 ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、 ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、 恵子ちゃん、幸栄君、 裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、 立派な人になって下さい。
父上様 母上様 幸吉は、もうすっかり 疲れ切ってしまって走れません
  何卆 お許し下さい。
気が休まる事なく、御苦労、御心配をお 掛け致し申し訳ありません、 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました、

【体育学校上官宛て】
校長先生 済みません、
高長課長 何もなし得ませんでした、
宮下教官 御厄介お掛け通しで済み ません、
企画室長、お約束守れず相済みません、 メキシコオリンピックの御成功を祈り 上げます、
 一九六八・一、 【注】〓は「七」を3つ重ねた字

●円谷幸吉(つぶらや・こうきち)
1940年5月13日、福島県須賀川町(現須賀川市)で出生。
同町の小中学校、須賀川高を経て陸上自衛隊に入隊。
八戸教育隊、第6特科連隊(郡山市)を経て、62年自衛隊体育学校特別体育課程の1期生として入校。
64年東京五輪の男子1万メートルで6位入賞、マラソンで銅メダル。
65年河北文化賞受賞。
67年3月、中大第二経済学部(夜間)を卒業。
68年1月9日午前、体育学校幹部宿舎の自室で自死している姿で発見された。
命日は同8日。163センチ、53キロ(東京五輪代表選出時)。

posted by 小だぬき at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今のスポーツ選手は、選手の心のケアもしっかりサポートされていますが、当時はそういうケアは何もないですからね…
Posted by あか男 at 2017年01月13日 18:00
東京オリンピックは、日本の高度成長期の入り口で開催されたものです。
円谷選手が 陸上競技で唯一メダルを獲得しました。
スポーツで全力を出し切るというより メダル獲得が至上命題になった大会でした。
私の児童期から思春期にかけて影響を受けたオリンピックでした。
割り振られた入場券で国立競技場に応援にいったのが小学校5年生。もう半世紀も経ってしまったのですね。
Posted by 小だぬき at 2017年01月13日 18:31
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