特集ワイド
福島の6年
「それぞれ」の桜
毎日新聞2017年4月24日 東京夕刊
春の到来に人は心を躍らせる。
でも、東京電力福島第1原発事故の影響が続く被災地の人々はどんな思いで桜を見ているのだろう。
避難指示は多くの地域で解除されたが、古里の復興までの道のりは遠い。
被災者に寄り添うはずの今村雅弘復興相は、自主避難者の行動は「自己責任だ」と言い放った。東日本大震災から6年となる春を迎えた福島県三春町を歩いた。
【小林祥晃】
「分断を生み出す。それが原発」
JR郡山駅から約15分。
列車が三春駅にゆっくり近づくと、家族連れや老夫婦らが「わあー」と歓声を上げた。
線路脇の桜並木から花びらが舞っている。
三春町は人口1万7000人ほどの山あいの城下町。
樹齢1000年超とされるベニシダレザクラ「三春滝桜」が有名だが、寺社や農家の庭先など、町の至るところに1万本以上の桜が植えられ、町全体が「さくら名所100選」の一つになっている。
訪れた日の桜はまだ満開ではなかったが、小さな駅の前は観光客らでにぎわっていた。「今日は平日だからすいているほう。
週末は毎年、大渋滞で前に進まねえくらいだ」。
稼ぎ時を前に、タクシーの男性運転手が声を弾ませる。
向かったのは、桜の名所の一つでもある古寺、福聚(ふくじゅう)寺だ。
住職で芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さん(60)の案内で、ソメイヨシノやベニシダレザクラが咲き誇る境内を歩いた。
「今は満開直前。
あのベニシダレザクラは樹齢約450年ですよ」。
県外からの観光客の姿も多く、境内は華やいだ雰囲気だが、玄侑さんの表情はどこかさえない。
震災直後、国の東日本大震災復興構想会議の委員も務めた玄侑さんに被災地の今を尋ねると、こう語り始めた。
「これほどまでに、ややこしくなってしまうとは……」
「千差万別という言葉がありますが、この6年で被災者は文字通り『人それぞれ』であることを思い知らされた気がします。
例えば、震災後も福島で暮らし、古里への強い思いを持つが故に『帰れる状況になったのに、なぜ戻ってこないのか』という声もないわけではありません。
でも6年たった今、それは極論です。
6年暮らした場所はそう簡単に離れられません」。
原発事故で福島を追われ、避難先で暮らす人々を、そうおもんぱかる。
一方で、地域によっては除染作業が進み、放射線量が問題にならないとされるレベルになった事実を前に、こんな思いも抱いている。
「自主避難者がインターネット上で『子どもを連れて福島に戻る』などとつぶやくと、別の自主避難者が科学的な根拠もなく『子どもを殺す気か』とたたいたりする。
これもまた極論ではないでしょうか」
福聚寺に生まれた玄侑さんは、さまざまな職を経て寺を継ぎ、数々の小説を書いてきた。
震災後に発表した小説「アメンボ」(2012年)では、放射線への不安を抱えながらも福島で子育てをする若い母親と、北海道へ避難する道を選んだ幼なじみの「分断」を描いた。
「この6年を、誰もが肯定したいと思っています。
福島に残った人には『残って良かった』という気持ちがあり、県外に避難した人も、その決心が正しかったと思いたい。
そして双方の立場とも、納得できる材料はたくさんある」。
その結果、両者の壁はどんどん厚くなってしまった。
そして、同じような「分断」は至る所で起きている。
補償や支援の対象となったかならないか、子どもがいるかいないか、農家か消費者か……。
玄侑さんが「ややこしくなってしまった」と表現したのはそのことだ。
「原発の再稼働を推進する人々は、こうした分断から生じる人間関係のややこしさを重大な問題と思わないのでしょう」
分断を生み出す。それが原発−−。
玄侑さんの言葉を胸に寺を出た。
町の外れで桜の木の向こう側に仮設住宅が見えた。
福島第1原発から西に約45キロ離れた三春町には、全村民に避難指示が出された葛尾村から多くの住民が避難している。
指示が一部解除された今も約300人が三春町の仮設住宅で暮らし、同町内に建設された復興公営住宅に移り住んだ人も約200人いる。
村役場の出張所や仮設の村立小中学校も設置されている。
桜に見とれていると、仮設住宅の集会所で談笑していた50代の主婦2人が「どうぞ上がって」と声を掛けてくれた。
2人とも、葛尾村に新たに家を建てて帰ることを決めたという。
1人が言う。
「三春の桜はきれい。
仮設住宅の桜にも癒やされた。
それでもね、葛尾村は良いところと思ってしまう。
私はやっぱり村に帰りたいのよ」
国は避難者の帰還を促す姿勢を鮮明にしている。
「国は『解除したから、はい帰ってください』と言うけれど、帰ってもすぐに住めるものじゃないの。
6年たつとどれだけ環境が変わるか」
「そうそう、床が抜けたり、動物に荒らされていたり」。
戻るならば家を新築するか、同じくらいの費用を使ってリフォームするしかないのだという。
話題は復興相に移った。
今まで何人の復興相が代わったのか、何回被災地の視察に来たのか……。
「1時間程度の視察で何が分かるのかね。
一晩でも泊まってみないと分からないよ」。
諦めたような口ぶりだった。
「分断」についても尋ねてみた。
身の回りで、そんな体験はありましたか、と。
すると途端に口をつぐんだ。
しばらくしてから1人がつぶやくように言った。
「6年という歳月は短いようで、長い。
同じ家族でも、別れて暮らすようになればその生活に慣れてしまう。
震災前は3世代で8人、10人で暮らしていた家族も一度離れてしまうと元には戻らないの」 なぜこんなことになったのか。
玄侑さんの言葉を思い出した。
「そもそも一律の基準で被災者を救おうとすることに無理があるのです。
『それぞれの事情』を理解しているのは、例えば『ご近所』のようなコミュニティー。
避難所や仮設住宅で生まれた人間関係も同じでしょう。
政府や行政に求めたいのは、こういったコミュニティーを丸ごと支える発想です。具体的に何をすべきかを考えると難しいのですが……」
仮設住宅を出ると、外は春の嵐だった。
突風に耐える桜が、被災地の人々と重なって見えた。
ニュースサイトで読む: https://mainichi.jp/articles/20170424/dde/012/040/026000c#csidxc7786b5fa08d8dd86dcc84dc21d8a59 Copyright 毎日新聞
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仏界で奥様と再会出来ることを祈りたいです。
唯一の救いは、親族は介護で大変だったでしょうが、認知症で奥様の死の悲しみを忘れられた期間があったことです。
教員の平均寿命は、私のような一般教員で69歳、管理職で65歳と教員仲間の間のでの一般的共通認識でした。
死は、仏界では 本人の充実した日に戻れるといわれています。悲しいですが、現生での苦しみを仏界では魂の幸せを信じたいです。