「防災の日」に考える
意識変え豪雨に備える
2017年9月1日 東京新聞「社説」
地球温暖化の影響か。
雨の降り方が近年、変わってきたといわれる。
今夏も局地的豪雨が相次いだ。
降り方が変われば、意識も備えも変えねばならぬ。
住宅地が広がる名古屋市名東区付近に七月二十九日夕、局地的な大雨が降った。
午後六時半までの一時間に約一〇〇ミリという猛烈な雨がレーダーで観測され、名古屋地方気象台は「記録的短時間大雨情報」を出した。
その地域では数年に一度程度しか起こらない激しい降り方、ということである。
◆水は突然押し寄せる
不思議なことに、同じ名東区でも南部の住民は、さしたる降雨はなかったと言う。
ところが、区内を流れてくる中小河川、植田川の水位はわずか十分ほどの間に急上昇し、氾濫寸前となった。
ほとんど降雨がなかった場所にも、不意打ちのように水が押し寄せてくる。
これも局地的な豪雨の恐ろしさである。
コンクリートで覆われた都市部では、大雨の水は地中に染み込むことなく、市街地の中小河川に一気に流れ込む。
二〇〇八年七月に神戸市を襲った局地的豪雨も思い出したい。
同市灘区の都賀川の水位は、やはり十分ほどの間に一・三メートルほど上昇し、河川敷にいた十六人が流されて小学生ら五人が死亡した。
大雨による災害は一時間降水量が五〇ミリを超えると起こりやすくなるといわれ、気象庁は一時間五〇ミリ以上八〇ミリ未満を「非常に激しい雨」、八〇ミリ以上を「猛烈な雨」と表現している。
その「非常に激しい雨」「猛烈な雨」は、明らかに増える傾向にある。
気象庁の統計によると、「非常に激しい雨」「猛烈な雨」が降った頻度は、アメダス(地域気象観測システム)千地点当たり、一九七六〜八五年の十年間は年平均一七三・八回だった。
ところが、〇七〜一六年の十年間は年平均二三二・一回。
つまり、この三十年ほどの間に30%以上も増えたことになる。
温暖化と大雨の関係は完全には解明されてはいないが、少なくとも温暖化で気温が上がれば海水温も上昇し、空気に含まれる水蒸気の量が増える。
こうして大雨になりやすくなると考えられる。
七十七人が犠牲になった一四年八月の広島土砂災害も、今年の九州北部豪雨も、同じ場所で次々と積乱雲が発生する「線状降水帯」が局地的な豪雨をもたらした。
◆ハードだけでは守れぬ
線状降水帯発生の予測は今の技術では難しく、今夏の九州北部豪雨でも、残念ながら気象庁などの情報が後手に回り、自治体が避難勧告を出した時には既に山間部で建物が流されていた。
豪雨への備えで何よりも重要なのは情報である。
より迅速に防災情報を出せるよう、なおいっそうの研究を気象庁に求めたい。
大雨を巡っては、国土交通省が一五年、「水防災意識社会再構築ビジョン」を策定してもいる。
従来の大雨対策は、いわばハードありき。
つまり、百年に一度、二百年に一度という大雨を想定した基準を設け、堤防や遊水地を整備していくものだった。
この再構築ビジョンは「施設では防ぎきれない大洪水は発生する」とうたい、住民が自らリスクを察知して主体的に避難できるようにするソフト重視も掲げた。
いわば、ハードの限界を認めて発想を転換した格好である。
同年九月の関東・東北水害を教訓とした。
茨城県常総市では二十キロも上流であふれた水が半日以上たってから押し寄せ、何千人もの住民が孤立した。
遠くであふれ出た水がどこに向かうのか。
洪水ハザードマップを見ていたとしても、想像することは難しいのが実情だろう。
危険が迫ってから避難するのでは遅い、ということである。
突然の地震とは違い、天気予報で予告される台風などの大雨は、対応するのに時間的な余裕があると思いがちだ。
ところが、近年相次ぐ局地的な豪雨は、そこが落とし穴になることを示している。
◆一歩先を想像する力
途方もない被害を出した五九年の伊勢湾台風の時代に比べれば、国土は頑丈な堤防に守られ、何千人もの犠牲者を出すような水害はなくなった。
その安心感、あるいは先入観が避難への反射神経を鈍らせてはいないか。
気象庁ホームページの「高解像度降水ナウキャスト」、あるいは今年七月から運用が始まった「洪水警報の危険度分布」など、一歩先の危険を知らせる仕組みは日進月歩で整備されている。宝の持ち腐れにさせてはなるまい。
豪雨災害は、どこでも起こることを、まず再確認したい。
身を守るのは、次の展開を想像する力である。
雨の降り方が変わってきたなら、雨への意識も改めたい。