2018年04月29日

明治維新の真相 江戸庶民は新政府軍を嫌い会津藩に期待した

明治維新の真相
 江戸庶民は新政府軍を嫌い
 会津藩に期待した
2018.04.28 NEWSポストセブン

 歴史は勝者によって作られる。
我々はそれを知っているはずなのだが、「明治維新」と聞くと思考停止してしまうようだ。
維新から今年で150年。
著書に『明治維新という幻想』がある森田健司氏がこれまでタブーとされてきた歴史の真実を暴く。
    * * *
 戊辰戦争期の江戸庶民の胸中を知るには、当時発行された「諷刺錦絵」を調べるのが一番である。
江戸時代、庶民が社会に対する批判を表立ってするのは大変危険だった。
すぐに捕縛され、命を奪われる可能性があった。
そこで彼らが熱中したのが「判じ絵」である。
作者が文字や絵にある意味を隠し、それを当てられるようにした絵だ。

戊辰戦争期には、判じ絵として描かれた諷刺錦絵が数多く発行された。
 見てすぐに気づくのが、新政府軍は江戸庶民にまったく人気がなかったことだ。
会津藩は江戸庶民の味方とする諷刺錦絵が多く残されており、“必ずや新政府軍を滅ぼしてくれる”というものばかりだ。
一方、幕府は潰れてしまえという諷刺錦絵は一枚もない。  

 背景には、江戸に入った新政府軍が増長し、何の罪もない町民に言いがかりをつけて斬殺するなど、傍若無人な行動を繰り返したことがある。
そのため江戸庶民は彼らを憎み嫌ったのだ。

 ここでは諷刺錦絵「東京雨天のつれづれ」を見てみよう。

   この二枚組の錦絵には、雨粒の落ちる中、番傘を持った11人の男性が喧嘩をしている様子が描かれている。
傘がある程度以上破れてしまうと、その傘の主は「負け」というルールのようである。
完全に負けてしまっているのは、右下と左下にいる男性二人だ。

右下の「二本の線」と「松」の字が描かれた傘を持つ人物は、二本松藩である。
二本松藩は、7月29日の大壇口の戦いでほぼ壊滅した。

左下で転倒しているのは、「平」の文字からわかるように、磐城平藩である。
磐城平藩が正式に降伏したのは、7月14日のことだった。

 中央にいる二人のうち、向かって右側の人物の傘には「土州屋」、「内」などの文字が見える。土佐藩である。
その左側は、「長」や「官」と「臣」を混ぜた文字から、長州藩と判明する。
この長州藩、向かって左隣の男性に何か言っているようだ。

「何を こしゆくな(こしゃくな) へンつがもねへ」とある。
「つがもない」とは、「訳もない、他愛もない」の意味である。
 この言葉を投げられているのは、「羽州屋」、「米」などと書かれた傘を手にした男性。
彼は米沢藩である。
「こんどハ おれが あいて(相手)だハ」などと威勢の良いことを言っている。

先ほどの長州藩の言葉はこれを受けてのものだろう。
米沢藩の敗北が決するのは8月に入ってからで、この絵が描かれた頃は、まだ彼らの奮戦に期待する江戸っ子は多かったということだろう。

 そして、一番右側、真ん中にいる「會」の字、「若松町」などの文字が見える傘を持つ人物、彼こそ会津藩である。
会津藩の傘は全く破られておらず、「ならバ てがらに ゆぶつて(破って)みろ」と威勢よく言い放っている。

現代風に言えば、「やれるもんなら、やってみろ」のような意味だろう。
東北の戦況は旧幕府側にとって厳しいものになっているようだが、まだ会津藩がいる。
江戸っ子たちの、そのような思いが込められているようだ。

【PROFILE】
森田健司●1974年兵庫県生まれ。
京都大学経済学部卒業。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士。
専門は社会思想史。
著書に『西郷隆盛の幻影』、『明治維新という幻想』(ともに洋泉社)などがある。

※SAPIO2018年3・4月号
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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