保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(3)
帝国主義的「国家像」と「国民像」(その1)
2018/6/ 9 J-CASTニュース
幕末、維新、そして明治新政府のもとで、日本が選択すべき国家像として四つの国の形があった。
そのうちの第一の道、つまり後発の帝国主義国としての道を日本は選択することになった、というのがこれまで記してきた内容である。
この道は独自の国民像を必要とする。
今回はこの国民像は、もともとの日本人の国民的性格と合致していたのか否か、を検証してみたい。
「富国強兵」「脱亜入欧」「殖産興業」で求められる国民性とは 帝国主義国としての道を選ぶまでの明治期の日本は、20年近くの時間を要している。
明治初年代は各地の不平士族の反乱や西南戦争に象徴されるように、国家像のありようをめぐって内乱まがいの蜂起が起こっている。
明治10年代には、板垣退助らによる自由民権運動の波が全国に及んでいる。
つまり帝国主義国家としての政治体制は、このような反乱や反政府運動をとにかく弾圧し終えてから、伊藤博文らによる新しい憲法制定の動きが軌道に乗っていくことでやっと形をつくっていく。
このときまでの20年間近くの間に、四つの国家像のいずれかを選択することが可能だったというのが私の説になるわけだが、後発の帝国主義像を具体化するために「富国強兵」「脱亜入欧」「殖産興業」などの方向を新政府は目ざしていくことになる。
こうした方向で求められる国民像とはどんなものだったか。
つまり国民の価値観にはどのようなものが要求されることになるのか。
これはすぐに推測できる。
急速に西欧帝国主義に追いつくには、次のような徳目が必要とされるはずである。
第一は立身出世主義。学歴などにより個人の能力を測り、そこに序列を持ちこむ。
第二に文化的な価値観や知識より軍事を尊ぶ。良き日本人は武にすぐれた人びととする。
第三に個を抹殺し、エリートに指導される集団の一員としての自覚。
第四に勤労を尊び、とにかく真面目に働き続けて共同体の範になる。
第五は君主制に対しての絶対的服従。天皇を家長とする家庭的共同体の枠組みに常にとどまる。
教育、暴力、監視の「三つの枠組」
こうした五つの国民的性格は、帝国主義の後発国としてもっとも望ましいとされることになった。
しかし幕末に至るまでの農民一揆、蘭学者たちの国際的視野、そして明治に入っての民権の発想と行動は、こうした国民像とは相入れない。
そこで新政府は、
教育(国家主義的教育内容)と
暴力(反政府分子を取り締まる治安立法など)、
そして監視(国民相互を監視させる。町内会、青年会などがそうであろう)の三つの枠組をつくって、帝国主義的国家の国民像をつくりあげていくことになった。
これは明治20年代から強まっていくことになるのだが、明治13年に太政官布告としてだされた集会条例のように暴力としての弾圧装置は早い時期から実施されている。
逆に明治37年の第一次国定教科書により、教育などは大日本帝国の憲法発布からしばらく時間を置いて行われたケースもある。
しかし明治維新150年をふり返るとき、この帝国主義的国家の人間像は、しだいに軍事に利用されていき、そして昭和のファナティックなファシズムの折には、社会的病理的現象まで生むことになった。
昭和10年代の太平洋戦争時の兵士たちへの死の強制や一切の「近代」を拒否しての呪術的戦争プロパガンダは、帝国主義的国家の国民像の辿りついた地点であった。
特攻作戦の背景に見え隠れしている陸海軍指導部の戦争観は、帝国主義戦争の悪しき思想の実践として強要された。
むろん個々の特攻隊員に対して、私はこの国の国民的性格の忠実な実践者としての側面があるから、指導部への批判とは別の見方をしているので、軽々な責め方はしない。
帝国主義的国家の選択、そこで理想とされる国民像(前述の五条件を指すわけだが)、これは本来の日本人の国民的性格とはまったくかけはなれていた――それを私は、明治150年のいま、明確にしてゆかなければならないと思う。(第4回に続く)