行き過ぎた
日本的な「潔癖主義」は
生産性を低下させるとの声
2018/07/01 NEWSポストセブン
近ごろ、個人や組織に厳しく求められる規律遵守とリスク管理。
程度の差に関係なく、ひとたび不祥事が公にされると、責任追及や厳罰を求める声が瞬く間に広がる恐れがあるからだ。
しかし、こうした寛容さを失った社会に警鐘を鳴らすのは、組織学が専門の同志社大学政策学部教授の太田肇氏だ。
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弁当を買いに行くため3分間の「中抜け」を繰り返していた神戸市職員が、減給の処分を受けた。
指示に反抗する乗客と言い争ったバスの運転手も処分されるという。
つくばエクスプレスを運行する会社は、定刻の20秒前に発車したとしてホームページに謝罪文を載せた──。
いったいどこまで細かくなるのか。
こうした重箱の隅をつつくような管理は、欧米では「マイクロマネジメント」と呼ばれ、しばしば非効率、非人間的な経営の代名詞となる。
実際、上記の事例も海外では揶揄する声があがっているそうだ。
わが国では昨今、何かにつけ寛容さを失い、潔癖を求める風潮が広がっている。
かつては大学生になると当たり前のようにタバコを吸い、酒を飲んだものだが、いまなら場合によっては本人や責任者が処分されるなど、大事になりかねない。
芸能人やスポーツ選手といった有名人なら、公にされた時点で即アウトだ。
たとえ記者会見を開いて謝罪しても、ちょっとした落ち度があるとワイドショーで袋だたきにされるし、長期謹慎も余儀なくされる。
息苦しい世の中になったものだ。
◆「潔癖」の代償
そもそも「潔癖」といえば好ましい印象を与えるかもしれないが、もともと「癖」(くせ)であり、必ずしも美徳ではないということを知っておく必要がある。
企業でいえば、食品にちょっとした異物が入っていただけで、たとえ健康や衛生に問題がないとわかっていても、イメージ悪化を恐れた会社は何百万、何千万という商品を自主回収する。
商品にゴキブリが混入していたとネットに投稿され、生産販売中止に追い込まれたケースもある。
悪評の拡散を恐れる会社の弱みにつけ込んで、店員に土下座を要求したり、商品を脅し取ったりする事件もあった。
日本企業が誇る徹底した品質管理も、良い面ばかりではない。
日本のメーカーが海外の企業から部品を調達する際、一つでも「不良品」が見つかると全品が送り返されることがある。
しかも不良品のなかには、性能に支障のない程度の小さな傷があったり、バリがついていたりする程度のものも多いといわれる。
そうした品質基準の差が原因で、外国企業との間で摩擦が生じる場合も少なくないそうだ。
問題は、高い基準とコストとの兼ね合いである。
製品の納期にしても日本企業は厳しいことで知られているが、製品によっては80点の水準ですむところを95点まで引き上げるとコストが2倍かかるという。
当然、それは国際競争においてハンディとなる。
そして、厳しすぎる基準は別の問題にまで波及する。
最近、大企業で品質検査の手抜きやデータの改ざんといった不祥事があいついでいるが、背景には必要以上に厳しい検査基準があるとささやかれている。
基準が現実の必要性からかけ離れていると現場で受け止められた場合、遵法意識そのものが薄れてしまう。
それがエスカレートすると、大きな事故につながりかねない。
もちろん製品によっては高い品質が求められるし、生命や健康に関わる場合には完璧な管理が求められる。
しかし、いくら「完璧」を目指しても人間のすることには限界がある。
むしろ完璧が求められるような仕事はAIやIoTに任せ、人間には人間特有の能力を発揮してもらうよう役割分担を進めるほうが合理的ではなかろうか。
◆最低限の仕事しかしなくなる公務員
話を冒頭の例に戻せば、重箱の隅をつつくような管理を行い、厳罰主義を貫いていると、表面上の不祥事は減るかもしれないが、徐々に職員は萎縮し、最低限の仕事しかしなくなる。
実際に職員への管理が厳しくなった自治体では、窓口の応対が杓子定規になり融通を利かせてくれなくなったとか、職員が休日の地域活動やボランティアに参加しなくなったという声が聞かれる。
ちなみに私はアメリカで各地の自治体を調査した際、職員が勤務時間中に喫茶店に立ち寄ったり、ちょっとした買い物に出たりすることは許されないかをシティマネジャー(市長や議会から市役所のマネジメントを委託された責任者)に尋ねてみた。
するとほとんどのシティマネジャーから、「自分の仕事をこなし、役割を果たしている以上、問題はない」という答が返ってきた。
つぎに、些細な落ち度や家族の不祥事などで職を解かれたケースを考えてみよう。
責任ある地位を追われた人の中には、余人をもって代えがたいほど実力のある人が少なくない。
しかしいくら有能だろうが、実績があろうが「微罪」でもアウトである。
そして彼らがつぎつぎと淘汰されれば、人材が無尽蔵ではない以上、能力はともかくクリーンなだけがとりえの人しか残らなくなる。
◆グローバル競争の大きなハンディに
このように行き過ぎた潔癖主義は軽視できない副作用をともなうにもかかわらず、その副作用は長期的にじわじわと生じるため、表面化しにくい。
そのため、どうしても目に見える規律正しさや几帳面さのほうが優先されてしまうのである。
海外の主要国と比べたわが国の労働生産性や国際競争力は、1990年あたりから大きく低下している。
企業の利益率も欧米企業などに比べて顕著に低い。
正社員は突出して長い時間働いているにもかかわらずだ。
その原因の一つがこの潔癖主義にあると考えて間違いなかろう。
これから本格的なAI時代に突入すると、人間に求められる要素も、働き方もこれまでとは大きく変わってくる。
そして行き過ぎた潔癖主義は、わが国がグローバル競争を勝ち抜くうえでいっそう大きなハンディになる。
大切なのは、厳しい基準を追い求めることと、それがもたらす弊害とをつねに比較考量し、バランスをとることである。
少なくとも、行きすぎた潔癖主義に異論を唱えることを許さないような風潮は改めなければならない。
では、何にその役割を期待できるのか。
はっきり言って、それは「外圧」しかないと思う。
わが国の歴史を振り返ってみても、歪んだ社会を正したのはたいていが「外圧」である。
グローバル競争の激化や外国人労働者の増加、海外からの厳しい批判などを奇貨として、際限なき潔癖主義に歯止めをかけるべきだろう。
寛容さが失われています。
企業ではコンプライアンス、
地域生活では「上げ足取りの自己中心的な人の増加」
世知辛いですね〜
この位の料金ならこの位の品質サービスでしょ、ということが無くなって常に顧客は最大限のクレームを発する、お客様だから私は神よ的な態度が会社や組織を委縮させているのではないかと思います。いつも頭を押さえつけられている人がクレームを発している時はマウントできる優越感もあるでしょう。自分に届いたクレームにストレスを感じている人が他者についクレーム。クレームの再生産がますます閉塞感を高めていく。
クレームやバッシングが 権力者や悪徳組織、理不尽に向かわせない報道機関やマスコミに問題があると思っています。
安倍や自公政権の反国民的な政権運営や大企業のリコール隠し労務政策などに本来「監視」の目を持ってする内部告発と少数者の正当な要求、権利活動と芸能ゴシップ・近所トラブル・理不尽なクレームをきちんと分ける訓練を教育現場でする努力が足りなかったと反省しています。
芸能人のゴシップはとりあげるが、彼らのプライベート保護や事務所の契約問題を分けて 個人営業主である芸能人を守る視点。
車のように死に直結するリコールと従業員に対する小さなトラブル・その場で話せばわかることを同一次元で考える愚かさを直視しなければなりませんね。
同一性社会化の進行と権力者の情報操作に負けない「個」の大切さは 利己主義や理不尽を許すこととは違うから。
生活保護バッシングの醜い意図と北朝鮮非難したいばかりに米軍と自衛隊の軍事力に目をつぶるおかしさ。
全面核廃棄を全国家にならわかりますが・・・。
差別支配の定石である「より弱い相手をつくる」施策に負けない根性をシニア世代だけでも持ち続けたいです。
ちょっと行きすぎ
このままだと、ノイローゼになるわ(・・;)
一番最初に出てきた根が、食堂での「ご馳走様」問題。
対価を払っているのに なぜ言うのかという 感謝や労りを無くした「拝金」の思考。
対人関係上でのお互いへの尊重・理解の喪失・・・。
芸能スキャンダルを 社会的視点でとらえる「仕事と個人」の分離の視点。
少し考えてみると 変だぞ! おかしいぞ! どうなんだろう? という素朴な疑問が 多数派・同調圧力でつぶされていく社会・・。
週刊文春の「疑惑の銃弾」連載で 犯人視が当然として容認してしまった 報道・ジャーナリズムの人権意識の欠如報道から 始まったのでは思います。
ノイローゼにならないように 考えることを止めない意識をしなければならない時代になったのかな・・・・。