終戦の日を迎えて
記録を尊ぶ国でありたい
毎日新聞「社説」2018年8月15日
終戦からすでに73年の歳月が刻まれ、来年5月には昭和、平成に続く戦後3番目の年号が始まる。
とはいえ、8月15日はいまだに私たちにとって羅針盤であり続ける。
日本という国の仕組みを根底から見直す原点になったからだ。
問われたことの一つに、集団無責任体制というべきものがある。
政治学者の丸山真男が「これだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を起したという意識がどこにも見当たらない」と評した精神構造だ。
国民に極端な忠誠を求めながら、国家中枢で組織防衛と状況追認に明け暮れていたのが戦前日本だった。
防衛省防衛研究所に併設された戦史研究センターに「市ケ谷台史料」と呼ばれる書類が保存されている。
和紙に1枚ずつ貼り付けられた史料には、焼け焦げた跡が残る。
破れて判読ができないものも多い。
寸断された責任の系譜
これらは、敗戦前後に旧陸軍が焼却命令を出した書類の燃え残りだ。
1996年4月、東京都埋蔵文化財センターが旧尾張藩上屋敷(かみやしき)のあった市ケ谷駐屯地(現防衛省)を発掘調査中に地中から発見した。
東条英機が天皇に裁可を求めた原簿、ポツダム宣言に関する憲兵司令部の動向調査、原爆投下直後に広島から打電された「特別緊急電報」などが目に付く。
ほとんどはまだ専門家の研究が進んでいない。
ポツダム宣言の受諾が決まった直後、陸海軍や内務省で機密書類の組織的な焼却が始まったことはよく知られている。
「大東亜戦争全史」によると「焚書(ふんしょ)の黒煙」は45年8月14日午後から16日まで上り続けた。
ただし、これほど大規模な焼却だったにもかかわらず、意思決定の記録は残っていない。
命令書も同時に焼却されたためとみられる。
わずかに九州の陸軍部隊が受電した電報に痕跡がある。「重要ト認ムル書類ヲ焼却スベシ。本電報モ受領後直チニ焼却」というものだ。
一連の焼却命令は、将来の戦犯裁判に備えたのだろう。
とりわけ天皇に不利な文書を葬る意図があったことは想像に難くない。
日本より早く降伏したドイツではすでにニュルンベルク裁判の準備が進んでいた。
同時に、実際はつながっているはずの軍官僚の責任の系譜も次々と断ち切られた。
満州事変以降、15年におよぶ戦争遂行の検証に障害となって立ちはだかったのである。
戦後、役人は「天皇の官吏」から「国民の公僕」に変わった。
なのに私たちは今年、過去に引き戻されたような行為を目撃させられた。
言うまでもなく財務官僚による公文書の改ざんと廃棄である。
背後には当然、権力者への迎合と自己保身があったと考えられる。
ところが、麻生太郎財務相は「動機が分かれば苦労はしない」と人ごとのように開き直った。
野党の追及にいらだつ安倍晋三首相は「私や妻が関与していないことははっきりした」と財務省の調査結果を逆手に取って強弁した。
政府にあって今も無責任の連鎖が続いているように見える。
歴史の総括は事実から
A級戦犯を裁く東京裁判は、46年5月に始まった。
重要書類の大量焼却は予想通り裁判に影響を及ぼす。
存在すべき文書が見つからず、絶対的に証拠が不足したことだ。
日暮吉延・帝京大教授は著書「東京裁判」で「本来なら公文書1通の提出ですむはずの問題がしばしば冗長な宣誓供述書や証言で立証されなければならず、東京裁判が長期化する要因になった」と指摘する。
記録文書の欠落は、史実よりイデオロギー優先の論争をも招いた。
国内の右派は東京裁判を「自虐史観」と批判するが、では戦争責任をどう整理すべきかの提案はない。
事実を共有しない国家、過去を検証しない国家に、共通の歴史認識が生まれることはなかろう。
昨年5月に他界した歴史学者の岡田英弘は、歴史という文化要素を持つ文明と、持たない文明が対立するとき、常に歴史のある文明が有利だと説いた。
その理由は示唆に富む。
「歴史のある文明では、現在を生きるのと並んで、過去をも生きている」
「歴史のない文明では、常に現在のみに生きるしか、生き方はない。
出たとこ勝負の対応しか出来ない」(「世界史の誕生」)
為政者は自らを正当化するのに、歴史の審判を待つとよく口にする。
それが通用するのは、正確な記録が積み上げられた場合のみである。