2018年08月26日

「お墓の問題」に悩む人が勿体なさすぎる理由

「お墓の問題」に悩む人が
        勿体なさすぎる理由
時代に合わない伝統に
       縛られなくてもいい
2018/08/25 東洋経済
(小だぬきは 昨日水戸の菩提寺で母の3回忌法要をしました。)

藤井 青銅 : 作家・放送作家

この夏、お盆で故郷に帰った方も多いだろう。
現代では、生まれ育った場所とは別の土地で暮らす人が多い。
しかし、先祖からのお墓は生まれ育った土地にある。
そして、日本全国で高齢化が進んでいる。

いま、故郷で暮らす親や親族が亡くなったあと、「先祖代々の墓をどうするのか?」という問題に直面するケースが増えている。
だがしかし、そのお墓は本当に先祖代々からなのか?

 いやそれどころか、われわれはいったいいつからお墓参りをしているのか?
実は現在、われわれが行っている「骨壺が埋まる石のお墓にお参りする」という伝統は、せいぜいさかのぼって100年そこそこ。
「先祖代々の墓」といっても、その「代々」はそんなに古くないのだ。

だいたい、庶民が「○○家」という名字を名乗るのは明治以降だし。

フェイクニュースで広まった
「お布施」や「戒名」
インド生まれの仏教が中国、朝鮮半島を経由して日本に伝わってきたのは、6世紀中頃だ。
そこから一気に飛んで、江戸時代に入る。
幕府はキリシタンを禁止。
すると、島原の乱(1637年)前後から、寺請制度・檀家制度が整えられていく。

これは要するに、各地域の寺が「この住民は我が寺の信者であり、キリシタンではない」と証明すること。
証明してもらわなければ住民はキリシタンの疑いを持たれるわけで、生死にかかわる。
なので、すべての人はどこかのお寺(檀那寺)の檀家にならざるをえない、という仕組みだ。
こうして寺は行政の末端として戸籍係の役割と、キリシタン監視の役割も兼ねた。
その代わりに、葬式・法要の独占権を得た。 やがて元禄の頃(1700年頃)、

『宗門檀那請合之掟(しゅうもんだんなうけあいのおきて)』という文書が現れる。
内容は、住民に対し「葬式、法要などを檀那寺で行え」
「寺の改築・新築費を負担しろ」
「お布施を払え、戒名を付けろ」
「檀那寺を変えるな」……などと、やたらお寺側に有利なことが並んでいる。

それもそのはず、これは偽書なのであった。
今でいう“フェイクニュース”だ。
しかも、いかにも家康が決めたことのように寺に張り出され、寺子屋の習字手本にも使われたというから、これまた今でいう印象操作や、洗脳教育みたいなものだ。
こうして、寺は経営が安定した。
俗に「葬式仏教」とよばれるものは、ここに始まる。

つまり、一般庶民がお寺のお坊さんと葬儀・法要を行い、家の中の仏壇にご先祖の位牌が並ぶ光景(位牌を使わない宗派もある)は、300年くらいの歴史しかないのだ。
ちなみに、元々の仏教で、死後の戒名はない。
位牌のルーツは儒教から来ている。
というか、そもそも祖霊信仰・祖先崇拝が仏教にはない。
中国の儒教と、日本土着の原始神道的な民俗信仰とが融合したのだ。
その結果、われわれは、(仏につながったとされる)ご先祖様を拝んでいる。

「お墓参り」の歴史は200年しかない
では、お墓はいつからあるのか?
実は、「養老律令」(757年)の喪葬令(そうそうりょう)で、庶民は墓を持ってはいけないとされた。
なので、ずっと時代が下っても、普通の人々は決められた地域に穴を掘って埋め、上に土饅頭を作る。
もちろん土葬だ。
いわば、これが墓だった。
目印として石を置いたり、木を植えたりはする。
やがて遺体が腐敗して土饅頭は陥没し、その存在はわからなくなる。
文字どおり、土に還るというわけだ。

しかしそれではご先祖を拝もうにも、どこを拝めばいいのかわからない。
そこでやがて、埋めたのとは別の便利な場所に、石塔を作って拝むようになった(民俗学では、これを「埋め墓」と「参り墓」の両墓制と呼んでいる)。
「参り墓」を拝んだところで、それはしょせん石材だ。
しかし、遠くにある「埋め墓」につながる入口だと考えればいい。
とはいえ、石塔を建てられるのは上流階級の話。

一般庶民が墓を建てるようになるのは、江戸時代のことだ。
各地の墓地で墓碑を調査したところ、「文化・文政・天保(19世紀初期)」の頃から、一般庶民の墓が増え始める、という。

天保2年(1831年)には、『墓石制限令』というものが出ている。
これは「百姓・町人の戒名の院号・居士禁止」や「墓石の高さ四尺まで」などと決めたもの。ということは、それ以前にそういう墓が出て来たということだろう。
そして、この規則を守るなら庶民も墓を建てていいということだ。

つまり、庶民がお墓を建て、お墓参りをする風習は200年くらいの歴史しかない。
明治になって、寺請制度がなくなる。
すると葬式仏教だけが残った。
そこへ、明治政府の「家制度」が始まる。
すると「先祖代々の墓」なるものが現れ、ここで「一緒の墓に入る」とか、「墓を継ぐ」とか「代々の墓を守る」という意識が生まれてくるのだ。
さらに、土地不足と公衆衛生の観点から火葬が推奨された。

明治の思想家として有名な中江兆民は「人が死ねば墓地ばかりが増えて、宅地や耕地を侵食する。
自分の場合は、火葬した骨と灰を海中に投棄してほしい」と書いている(兆民は無宗教の人だから、葬式も拒否。代わりに行われたのが日本初の「告別式」だ。
あれは元々、宗教とは別のものとして始まった)。

しかしそれでも、全国の火葬率は明治半ばで30%、大正時代で40%。50%を越えたのは戦後の1950年代。
火葬施設が整えられることで1980年代に90%を越え、現在はほぼ100%。
日本は世界一の火葬大国なのだ。

移りゆく「伝統」に
        縛られなくてもいい
戦後、家制度はなくなる。
生まれた土地から離れて暮らす人々も増える。
「地元のお寺・お坊さん・お墓」と「人」との関係は、どんどん希薄になっていく。
当然、檀家を前提にした寺の経営は苦しくなる。
そこで葬儀社が葬祭一式を取り仕切るようになった(葬儀社は、すでに明治時代、東京に誕生している)。

もはやお寺のお坊さんは、セレモニーホールで葬儀社が仕切るイベントの中の、いち登場人物(重要ではあるが)にすぎない。
いつの間にか社会的な儀式であったはずの「告別式」も宗教的儀式の中に取り込まれている。
人は必ず死ぬ。それは大昔から変わらない。
だから、葬儀や墓に関する「伝統」も大昔から変わらないと思いきや、こんなに変わって来ているのだ。

となると、「先祖代々の墓」に「一緒に入る、入りたくない」で家族同士が争ったり、「継ぐ」とか「守る」で頭を悩ますことにも、あまり意味はないようにも思える。
信心・信仰というのは心の中のことだから、目に見えない。
なので、さまざまな儀式を必要とする。
ほとんどの人には意味のわからないお経とか、お焼香の回数とか、四十九日法要とか、一周忌、三回忌、七回忌……。お墓の魂入れ、墓じまいの魂抜き……など。

一般の人にとって「宗教は儀式に宿る」。
その儀式が時代に合わなくなれば更新して、再設定すればいい。
「伝統」とは、人が生きやすいために作った決め事の集積にすぎない。
時代に合わなくなった伝統に縛られて生きている人々が悩まされるとしたら、きっと「代々のご先祖様」も喜ばないだろう。
posted by 小だぬき at 01:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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