2018年09月09日

「知識偏重」「暗記」教育に対する大いなる誤解

「知識偏重」「暗記」教育に対する
     大いなる誤解
「生きた知識」と
「死んだ知識」の違いとは?
2018/08/31 東洋経済

今井 むつみ
: 慶應義塾大学環境情報学部教授

近年、従来の教育が「知識偏重」と批判される傾向がある。
果たして、教育にとって知識とはどういう意味を持つのか。
認知科学の視座から学びのメカニズムを研究する慶應義塾大学・今井むつみ教授が解説する。

「アクティブラーニング」あるいは「主体的な学び」ということばが、今の教育界のキーワードのようである。
しかし、「主体的な学び」が何を意味し、何を実践すればそれが実現できるのかについては、深い議論があまりされていないし、教育現場でも、理解しようともがいているのが現状のように思われる。
共同、協調して行う学習形式のこと、あるいは積極的に発言をすることが「主体的な学び」と受け取っている様子も散見される。

本来、「主体的な学び」とはどういう学びなのだろうか。
「主体的な学び」というからには、「主体的でない学び」があるということが前提となっている。
では「主体的でない学び」とは何なのだろう。

学ぶとは、知識を得ること
「主体的な学び」を標榜する人たちが、従来の学びを「知識偏重」と批判するのをよく耳にする。
「知識はもういらない」という過激な言葉を聞いたときには驚愕した。

認知科学の観点からすると、「学習」は「知識」と切り離して考えられないからである。
従来型の学びを「知識偏重」と批判する裏には、知識というのは、1つずつカードに書いてあるような知識(の断片)があって、それを個別に覚えていく、というような知識モデルがある。
さらにその背後には、知識というものは出来上がった、固定化されたものであって、そこに新たな断片が張り付いていって、知識のボディを大きくしていくというイメージがある。

「死んだ知識」と「生きた知識」
認知科学の研究成果から得られた知識像はこれとは随分違うものだ。
知識は知識から生まれる。
認知科学では、一言でいえば、学ぶとは知識を得ることである。
しかし、それはバラバラに存在する断片ではない。
認知科学では、そのような断片の知識は「死んだ知識」と呼ぶ。
それは、覚えていても、それをいつ、どのように使ったら良いのかわからないので、それを使って何もできない状態にある知識である。

「死んだ知識」の対極が「生きた知識」である。ことばの知識を例にして考えてみよう。
たとえば、英語の単語を1つの日本語の単語に置き換えて5000語覚えても、英語を話すことはできない。
しかし、500語程度しか知っている単語がなくても、英語を母語とする子どもは、それを使って自分の言いたいことを表現できる。
前者は死んだ知識の良い例、後者は生きた知識の良い例である。

なぜ母語の習得は
「生きた知識」の習得なのか
子どもは語彙が少ないうちから母語を果敢に使い、コミュニケーションを取っていく。
多くの人は子どもが大人から教えられてことばを覚えると思っている。
しかし、それは間違いである。
ことばの意味を知るということは、このことばがいつでも使えるということである。
子どもに、どのように「赤」の意味を教えられるか、考えてみてほしい。
消防車やトマトを指して「あか」と言うことがせいぜいだ。
しかし、消防車とトマトの色が「あか」と覚えてもそれで「赤」の意味が理解できたことにならない。

「赤」ということばを使えるということは、一般的に「赤色」に結び付けられる消防車、リンゴ、トマトなどだけでなく、大人が「赤」と呼ぶ色すべてを「あか」と認識し、「あか」と呼ばない色は「赤とは違う」と認識できることである。
そのためには、「赤」と似ているが、違う色――オレンジやピンクということばを知っていて、それらとの違いがわかる必要がある。
子どもは、さまざまなモノを見て、その色の名前を聞く。
しかし、赤とオレンジとピンクがどのような関係にあって、それぞれの境界がどこで引かれるのかは自分で探すしかない。
実際、子どもは何千、何万ものことばの意味を自分で推測することで覚えているのである。

ヤギとヒツジが区別できる理由
子どもは教えられずにいったいどうして何万もの単語を覚えられるのだろうか。
ひるがえって、大人が英語(あるいは他の外国語)の単語を学ぶとき、さまざまな媒体でその意味を教えられるのに、その単語を使って英語を話したり書いたりすることができないのはなぜだろうか。
その秘密は、子どもがことばを学ぶときには、決して一つひとつのことばをバラバラに覚えて、そのままにしておくのではない、という点にある。

子どもはつねに、新しいことばをすでに知っていることばとの関係で理解する。
また、子どもが新しいことばを覚えるときに、そのことばの意味を覚えることにとどまらず、2つのことが起こっている。

第一に、すでに知っていることばの意味が修正される。
たとえば、羊のことを「ヤギ」と呼んでいたのが、1匹の羊に対して「ヒツジ」という言葉で呼ばれることを知ると、広く取り過ぎていた「ヤギ」の範囲を自分で狭め、「ヤギ」と「ヒツジ」を区別するようになる。

学び方を学ぶ
もう1つはもっと重要だ。
子どもはそれぞれの単語の意味を推測し、覚えると同時に、語彙全体の仕組みについて探索する。
一つひとつの単語のレベルではなく、それよりも大きなくくりで語彙を分析し、その中の規則性をとらえてそれを新しい単語の推測に使ったり、新しい単語を自分で創り出したりするのである。
たとえば、ある子どもは、おばあさんが客に「ソチャ(粗茶)ですが」と言いながらお茶を差し出すのを聞くと、「ソ」はお客さんに言うときの枕として付けるのだと考え、自分の猫を見せて「ソネコです」と言った。
このような語彙に潜む汎用的な仕組みを発見すると、新しいことばを覚えるスピードがどんどん加速していくのである。
これを認知科学では「学び方を学んだ」という。
言い換えれば、子どもは機械的に語彙中の単語の数を増やそうとだけしているのではない。
個々のことばを超えた語彙というシステムの構造を発見すべく探究し、同時に、すでに持っている知識を修正、再編成している。
この過程があるから、母語の知識は「生きた知識」なのであり、すでに持っている知識が新たな知識を創り出すという「創造のループ」が生まれるのである。
このような、生きた知識を創造する過程こそが「アクティブラーニング」の本質である。

「アクティブラーニング」を標榜するなら、知識を事実の断片の集まりととらえ、「知識偏重」と言って知識を非難する前に、まず知識とは何かを考え、知識の本当の姿を理解してほしい。
「知識偏重」とともにやり玉に挙げられるのが「暗記」である。

「暗記」がすべて悪いわけでない
確かに、英単語をひたすら日本語の単語に置き換えてそれを覚えようとする暗記は死んだ知識しか生まない。
覚えた断片が、英語を使うために必要な文法の知識にも、英語固有の語彙の構造の発見にもつながらないので、英語という言語のシステムを創造することがまったくできないからである。
しかし、すべての「暗記」が死んだ知識しか産まないのだろうか。

プロ将棋棋士の島朗九段が著書『島研ノート 心の鍛え方』で、あるプロ棋士が弟子に課した暗記の仕方を次のように述べている。
指定図書の中からまず一冊、一局ずつ勝った側から並べ、次に負けた側から並べる。
そして暗記して棋譜に書き出し、何も見ずに並べて一局が終了する。
都合四回ほど同じ将棋を言葉のほんとうの意味の通り、精密に調べる方法だ……(143ページより)

自分の知識を総動員して駒の並びの一つひとつの意味を深く考え、吟味する。
その結果、棋譜は考えた内容――つまり、そのときに創造された知識――と一体となって記憶に深く刻まれる。
要するに、暗記されてしまう。
このように得られた記憶は「生きた知識」となって、必要なときに無意識に思い出される。

達人たちは常に試行錯誤している
学び、覚えたことが「生きた知識」になるか「死んだ知識」に終わってしまうかは、協同学習や対話学習などの学びの形式で決まるわけではない。
認知科学の重要な研究分野の1つに「熟達研究」がある。
研究者たちは、学習者があることを熟達していく過程における心と脳の変化の過程を詳細に明らかにするとともに、さまざまな分野の超一流の達人がどのようなマインドを持ち、学びの工夫をしているのかを探究している。
数多くの研究からわかったこと。
それは、達人たちは、必ず、自分で独自の「学び方の学び」を工夫していて、そのために常に試行錯誤をしているということである。
学びが、生きた知識を生むアクティブラーニングになっているかどうかは、学びへ向かう気持ちで決まるのである。
posted by 小だぬき at 00:00| 神奈川 ☁| Comment(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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