お金がいくらあっても「足りない」と思うワケ
「満たされた」感覚が全く得られないヤバさ
2019/02/24 東洋経済オンライン
佐藤 優 : 作家・元外務省主任分析官
食欲や睡眠欲もある程度充足すれば、満足感は得られるもの。
ですが、いくらあっても満足感が得られないのが、「お金に対する欲求」です。
金銭欲はなぜ収まりづらいのか?
作家・元外務省主任分析官の佐藤優さんが解説します。
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お金には「限界効用逓減の法則」が当てはまりません。
具体的にいうと、例えばどんなに好きな食べ物でも、ある程度食べてお腹が膨らんだらもういらないと思うでしょう。
どんなにお酒が好きな人だって、ウォッカを3本も空けたらもうお酒を見るのも嫌になるはず。
これが「限界効用の逓減」で、ある程度手に入れたら「満たされた」という感覚や「もうたくさん」という感覚になる。
つまり充足することで欲望が減少するわけです。
ところがお金だけは違う。
100万円を手に入れたら次は1000万円がほしいと思う。
1000万円手に入れたら、今度は1億円がほしいと思う。
欲望に際限がない、つまり「限界効用が逓減しない」のです。
これがお金の怖いところで、一種麻薬に似ています。
どんどんエスカレートして、それがないと不安になり、けっして満ち足りるということがありません。
お金の欲求は際限なくエスカレートするもの
外交の世界では「情報を金で買うな」という鉄則があります。
ある人物から情報を得ようとする際、お金の力に頼るのがいちばん簡単に見えます。
しかし相手が報酬に味をしめて金額を吊り上げてきたり、金銭の額に応じて情報の質を変えてきたりする可能性がある。
しかも場合によっては、より高い報酬を支払う別の第三者に寝返る可能性もあります。
インテリジェンスの人間にとっては、情報の質こそが最大のポイント。
ですから、お金に執着の強い人間には警戒して近づこうとしません。
そういう人の特徴は、お金を請求するときに積算根拠のないお金を要求してくることです。
例えば10万円必要だとなったとき、これとこの資料を買い、相手と会食するのにいくら必要だというように、その内訳を明示できる人は大丈夫。
多少それに上乗せをすることはあっても、法外なお金を要求することはまずありません。
あとは要求金額は高くても、ちゃんとした理由がある人物。
自分の娘が病気で医療費がかかるなどの事情がある人は報酬を吹っかけてきますが、理由があるのでその後要求がエスカレートする危険は少ない。
「お金」が誕生した理由
ところが、お金の内訳についての説明が一切なく、アバウトにいくらと要求してくる人物がいる。
これはただのお金好きな人間だと判断して警戒します。
そういう人物はどんどん要求がエスカレートするのがつねで、これなどもお金に「限界効用逓減の法則」が当てはまらないことを証明しています。
なぜ、お金には「限界効用逓減の法則」が当てはまらないのでしょう?
それはお金は人間がつくり出したものであり、自然物ではないからです。
お金とは「人と人との関係」を具現化したもの
そもそもお金はどうして生まれたのか?
こういう根本的な問題に応えてくれるのは近代経済学でも、まして最近のマネー本でもなく、マルクスの『資本論』です。
お金は商品の交換から生じます。
例えばいま自分はボールペンをたくさん持っている。
ジュースが1本ほしいのでボールペン2本と換えてくれと交渉し、成立する。
今度はICレコーダーがほしいとします。
ICレコーダーは価値が高いのでボールペン100本と交換してくれと交渉する。
しかし相手はボールペン100本も必要ないからダメだと。
ならばボールペン50本とジュース25本でどうかと。
こういう風に、商品の交換だとかなり面倒なことになります。
そこで、誰もが共通に価値があると認めるものを媒介させ、交換しようとなった。
例えば、かつての日本ではそれがおコメだった。
いったんコメに換えることで、後からほかのものにいくらでも交換できたんです。
これを『資本論』では「一般的等価物」と呼んでいます。
ただしコメはかさばるし時間とともに劣化します。
そこで、それに代わる一般的等価物として金や銀などの貨幣が生まれ、やがて紙幣になっていく。
お金というのは商品の交換の際に必然的に生じてきたものであり、人と人との関係と、その概念がモノになって具現化したものです。
自然界にあるものは、人間はある程度得られれば満足するよう本能的にプログラムされています。
しかし、人間と人間の関係がつくり出したお金には、それが当てはまらないようです。
例えば、魚や野菜を必要以上に大量に買う人はいないでしょう。
余ったら腐らせるだけだからです。
ところがお金はいくら持っていても腐らないし、基本的にどんなものにでも交換できる。
だからたくさんあればあるほどいいと考える。
お金の価値が「一瞬」で消えるとき
守銭奴という言葉がありますが、まさにお金を貯めることだけが趣味のような人もいます。
たしかに資本主義の世の中は、すべてを商品化する方向に動きますから、最終的には人間の命さえお金に換算してしまう。
そんな世の中であればこそ、お金だけが信用できるとひたすら蓄財に励む人が現れてもおかしくありません。
100万円手に入れたら1000万円、1000万円手に入れたら1億円……。
際限のないお金への執着の連鎖が始まるわけです。
お金が紙切れであることに気づく瞬間
お金は具体的な商品やモノではないがゆえに、さまざまな可能性と期待、欲望が無制限に反映されます。
逆に言えば、それくらい多くの人に幻想を抱いてもらったほうがお金、通貨としての価値や強さが出てくる。
最近はFXなどで個人投資家も為替に関わることが増えていますが、まさに通貨の強さが国家にも投資家にも重要なポイントになっています。
ただし、その価値は本来の通貨そのものの価値とは違ったものであることを忘れてはなりません。
通貨がFXのような投資の対象になった以上、それを取り巻く人間たちの期待や信用、思惑を反映した、実体とは遊離した蜃気楼のようなものになっているのです。
皆さんは1万円札の原価がどれくらいか知っていますか?
造幣局の輪転機を回せば原価はわずか22円。
つまり、本来の1万円札の価値は22円なのです。
お金が幻想から成り立っているというのは、この事実からもわかるでしょう。
この幻想が崩れる瞬間を私は体験しています。
旧ソ連の日本大使館に勤務していたころ、当時はソ連が崩壊する直前で、とてつもないインフレと物資不足にあえいでいました。
忘れもしない1991年1月のある日、夜のニュースで突然、「本日24時で50ルーブル、100ルーブル紙幣が使えなくなります」とアナウンサーが読み上げたのです。
日本でいうなら5000円札と1万円札が使えなくなるのと一緒。
それまで使っていたお金が紙切れになる瞬間というのは、言葉にはできない感覚です。
日本も終戦直後には同じような状態だったわけです。
激しいインフレでお金の価値が一気に下がり、また当時は国のお金のほかに国外では軍票という軍が発行していたお金もあった。
軍票で資産を持っていた人もたくさんいたはずですが、当然すべて紙切れです。
お金とは人と人との関係がつくり出した人工物であるがゆえに、また人々の幻想と欲望を反映したものであるがゆえに、価値が一気に膨らむこともあれば、まったくのゼロになることだってある。
その怖さを体験しないまでも、頭の隅に入れておくことは必要です。