「不謹慎狩り」の犯人は?
戦時中すでにあった「ネット世間」の原型
この不毛なゲームやめるには…
withnews 2019/05/25
平成も終わりに差し掛かった平成28年(2016年)に発生した「熊本地震」では、被災地への支援を公言した有名人らに対するバッシング行為が相次いだ。
古くは戦時中にも見られた「不謹慎狩り」が今、ネット空間において不安と不満の連鎖を生んでいる。
不安定な社会のフラストレーションを解消する「コスパの良いゲーム」を、私たちはいつまで続けるのか。
「不謹慎狩り」の起源を振り返る。(評論家、著述家・真鍋厚)
笑顔の写真アップしただけで「不謹慎」
現在、大きな自然災害が起こる度にネット上で沸き上がるようになり、著名人はもちろんのこと一般人も対象となっている「不謹慎狩り」。
中でも熊本地震は、「不謹慎狩り」が注目された最初の大災害として記憶されている。
例えば、被災地に義援金を送ったタレントが、その金額を明らかにしてソーシャルメディアに投稿した途端、「偽善」「売名」などとの批判にさらされ、歌手が非常時に必要なもの一式を示したイラストを、自撮りの写真付きでソーシャルメディアに投稿すると、それにも「売名」などとの批判が押し寄せた。
さらには、震災で家が全壊し、途方に暮れた状況を涙ながらにソーシャルメディアに投稿したタレントに対しても、そのような発言自体が自己アピールと断罪され、誹謗(ひぼう)中傷のコメントが相次いだ。
一方、震災とまったく関係がないにもかかわらず、女優が友人たちと笑顔で写っている画像を投稿しただけで、「不謹慎」の大合唱に見舞われ削除に追い込まれた。
バッシングのためのバッシング
このような炎上現象を引き起こす人々について、精神科医の岩波明は、「彼らの本当の目的は、正当な非難ではない。
ネット住民たちは、バッシングすべき対象が見つかれば、相手は誰でもよい。
ただ、他人を徹底的に攻撃することが、心地よいのである」と述べ、
「現在の日本社会では、バッシングすること自体を自己目的化したバッシングが横行している」との認識を示した(岩波明『他人を非難してばかりいる人たち バッシング・いじめ・ネット私刑(リンチ)』幻冬舎新書)。
「自己目的化」とは言い得て妙である。
ただし、その異常な行為の背後には、「世間」という価値観に捕らわれて不自由を強いられている個人がいることにも目を向けなければならない。
バッシングをする側が抱える社会的なつながりの希薄さ、不安と不満の感情を抱え込みやすい個人が浮かび上がってくる。
戦時中にもあった「不謹慎狩り」
実は、「世間」を隠れみの(みの)にした「不謹慎狩り」は、最近始まったものではない。
今をさかのぼること七十数年前。
第2次世界大戦中の出来事である。
当時、東京に住んでいた男性は、焼け跡の庭に残っていた蓄音機を見付け、空襲警報は出たものの敵機が来ない(戦時中はこういうことがよくあった)のを幸いに、ベートーベンの第九のレコードを流していた。
すると、通りすがりの人間が難詰してきたのである。
警防団のおじさんがとんで来て、「こらっ、敵国の音楽を鳴らすとは何事か」と怒鳴った。
「ベートーヴェンはドイツ人です」「ああそうか」(ドイツは当時友好国だった)しかし、続けて怒鳴った。
「そんなに大きな音を出したら、敵機に聞こえるじゃないか」。(松谷みよ子『現代民話考6 銃後 思想弾圧・空襲・原爆・沖縄戦・引揚げ』立風書房)
「警防団のおじさん」は、最初「敵国の音楽」をかける不届き者がいると思い、この男性を口酸っぱく注意してやろうという心積もりだったが、それが見当違いであることが分かると、今度は「音量の大きさ」を出しに揚げ足を取ろうと試みるのである。
つまり、「こんな非常時に音楽鑑賞に浸るやからはけしからん」というわけだ。
身内の者だったら「世間体が悪い」といった表現を用いたことだろう。
戦時中は、このような過干渉が珍しくなかった。
顔色うかがっている世間とは?
「警防団のおじさん」のエピソードから見えてくるのが「世間」というものの実像だ。
歴史学者の阿部謹也は、日本における「世間」という概念は、西洋から輸入された「社会」(society)という概念とまったく異なると指摘している。
欧米では、先に「個人」があってその取り決めから「社会」が形成されているが、日本では「個人」の意思以前に「世間」が存在している。
「世間は所与とみなされているのである」(太宰治『人間失格・桜桃』角川文庫)。
「世間」というものを暫定的に定義すれば、「自分が評価や評判を気にしているゆるやかな帰属集団とその影響が及ぶ範囲」となるだろう。
そのため、自分が非難されることを恐れて「世間の顔色をうかがう」と同時に、自分が誰かを非難する時は「世間を味方に付ける」行動様式が内面化される。
しかも、その「世間様」は独立した意思を持つものではなく、本人の私的な感情が多分に含まれているのだ。
これをうまく小説の中で表現したのが太宰治である。
全然、古くなかった『人間失格』
『人間失格』にある、主人公の男性がヒモのような生活を送っていることに対し、悪友が「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。
これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と言い、思わず男性が「世間というのは、君じゃないか」とのどまで出かかるくだりである。
◇
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
――太宰治『人間失格・桜桃』角川文庫
◇
このやりとりを読んでもまったく古さを感じないどころか、昨今ソーシャルメディアで放火魔よろしく暗躍する炎上の担い手たちの、寒々とした心根を浮き彫りにする名文として受け入れることができる。
つまり、「世間」という主語が、発信者個人の立ち位置を煙(けむ)に巻く、いわば「責任主体の拡散装置」として機能しているのだ。
そして、オンライン上でのコミュニケーションが匿名性や不可視性が、そのような振る舞いを後押ししている様が見えてくる。
対面ではあり得ない恥知らずな言動へのハードルが下がってしまうことを、心理学者のジョン・スラーは「有毒性脱抑制」と名付けたが、このような効果と相まって「責任主体の拡散」がより一層増幅されるのである。
世間を気にして得られるもの
わたしたちの社会は、かつてのような伝統的な共同体が形骸化する一方にある。
その半面、既存の人的ネットワークの束縛を甘受することで得られた見返り=i「出世」や「生活の安定」が分かりやすい例)が失われつつあり、いくら「世間」のことに心を砕いたところで「労多くして功少なし」となる。
個々人が内面化した「世間」というモノサシのメリットよりもデメリットが上回り、「身動きが取りづらい」「不自由で不愉快な感じ」が澱(おり)のようにたまり精神を濁らせる。
だから、自分が「周りをうかがって我慢していること」や「やりたくてもできないこと」を「誰かがやっていること」に憤懣(ふんまん)や嫉妬を抱きやすくなるのだ。
「世間」を振りかざして有名人などをたたくことは「娯楽の一種」であり、現実に何がしかのインパクトを与えられることで手軽に達成感が得られる
――「非常時」というマジックワードは、今や誰にとっても相手の言動を封じるための大義名分だ――
しかし、炎上騒動に喜々として加わろうとするネットユーザーの多くは、社会的なつながりが乏しいがゆえに不安と不満の感情を絶えずため込むような状況にあり、次なるスペクタクルに乗り遅れまいとスマートフォンの画面から離れることを困難にしている。
負の連鎖である。
支えのなくなった社会で続くゲーム
日本におけるソーシャルメディアの世界は、無数の「ネット世間」が複雑に絡み合うジャングルであり、日々のフラストレーションをうまく処理できない環境下に置かれた人々にとって、「親指を動かすだけでガス抜きができるコスパの良いゲーム」と化しているのだ。
「不謹慎狩り」はそのようなゲームのうちの一つに過ぎない。
だが、よく目を凝らして周りを見てほしい。
平成のおよそ30年の間に、人と人が共同体によって支え合うソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が枯れ草となって燃え尽き、ちょっとした見込み違いのためにホームレス状態に転落しかねない悪夢のような状況が出現している。
社会は焼け野原同然となり、わたしたちのほとんどは表面上、何の問題もなく見えても、実は被災地に住んでいるも同然となっているのだ。
一体誰がこんな世界にしたのか?
わかりやすい犯人を見つけることは難しいが、わたしたち一人ひとりにも良かれあしかれ責任がある。
しかし、それは当事者として生きる可能性を意味している。
「コスパの良いゲーム」を止める決断ができるのも、わたしたちに他ならないのだから。
わたしたちは、煌々(こうこう)と闇を照らす画面の外の現実こそ直視しなければならない。