「河野さんの無実は最初からわかっていた」
黙殺された科学者の訴え【松本サリン事件25年】
2019/06/27 (AERA dot.編集部・西岡千史)
1994年6月27日深夜、長野県松本市で発生した「松本サリン事件」。
死者8人、重軽傷者約600人という、オウム真理教が起こした無差別大量殺人事件だ。
事件では第一通報者の河野義行さんが長野県警からサリン製造の疑いをかけられ、メディアも河野さんを犯人視する報道を続けた。
河野さんの疑惑が晴れたのは、翌95年3月20日に地下鉄サリン事件が起き、教団幹部が次々と逮捕されてから。
松本サリン事件は多数の被害者を出しただけでなく、警察とメディアによる河野さんへの人権侵害事件でもあった。
実は、事件の発生直後に化学の専門家が「河野さんにサリンは製造できない」と指摘していたことはあまり知られていない。
なぜ、科学者の意見は警察の捜査やメディアの報道に生かされなかったのか。
事件発生翌日に、謎の毒ガス物質を「サリン」と分析し、河野さんの疑いを晴らすための現地調査に協力した元国際基督教大(ICU)教授の田坂興亜さん(79)に、事件の教訓を語ってもらった。
* * *
松本市の閑静な住宅街で起きた謎の毒ガス事件から一夜明けた94年6月28日、ICUで化学を教えていた田坂さんの自宅に、朝日新聞の記者から一本の電話があった。
事件について、専門家としての意見を聞きたいとのことだった。
毒ガスの成分は不明。
ただ、第一通報者で、事件現場付近に住んでいる河野義行さんの自宅に、複数の薬品が保管されていたことがわかっていた。記者たちは、薬品の調合で毒ガスが発生する可能性があるか、化学の専門家に見解を求めていた。
記者の話では、被害者を診察した医療機関が「アセチルコリンエステラーゼ」という酵素の活性が低くなっていると説明しているとのことだった。
農薬などで使われる有機リンの中毒でみられる症状だ。
ただ、事件の状況を聞いて、有機リン系の農薬による毒ガス発生ではないとすぐにわかった。
田坂さんは、こう振り返る。
「3階や4階でも被害者が出ていたんですよね。
日本で使われている有機リン系農薬は、気化してもそこまで毒性の高いガスが発生することはありません。
なので、記者には『有機リン系農薬の開発の淵源となったサリンやタブンなどが使われたのではないか』と話しました」
事件発生から24時間も経っていない時期に「サリン」に言及した専門家は、ほとんどいなかった。
実際に捜査本部が毒ガスの物質を「サリン」と発表したのは、さらに5日後の7月3日。
この時から、一部の専門家しか知らなかったサリンが、日本で広く知られるようになった。
だが、毒ガスの成分がサリンと判明したことは、ある“間違い”を引き起こした。
サリンが未知な物質だったため、化学の専門家が間違った知識をテレビや新聞で紹介したのだ。
「今では考えられないことですが、化学の専門家が『サリンは手作業で製造できる』『バケツの中で混ぜればいい』といった説明をしたんです。
*小だぬき:母校の元神奈川大学経営学部教授 常石敬一氏の見解
これに警察やマスコミが誘導されて『河野さんが薬品を混ぜ合わせてサリンを発生させた』との見方が広がりました。
十分な知識もなく、調べもせずに間違った情報を発信した科学者の責任は重いです」(田坂さん)
サリンはもともと、1930年代にナチスドイツが化学兵器として開発したものだ。
製造過程では、毒ガスが外に漏れ出ないよう厳重に守られた施設が必要で、手作業では作業者が即死する。
当時は、化学の専門家の間でも、そんなことすら知られていなかった。
松本サリン事件は、警察やメディアの誤った思い込みが河野さんを苦しめた。
捜査や取材が進むなかで「河野犯人説」を強める意見を科学者に求めていたのかもしれない。
「でもね」と、田坂さんは笑いながら話した。
「ICUで使っていた教科書にサリンの記述があって、英語の原著にはサリンの構造式が書かれてあることは知っていたのですが、そこまで詳しかったわけではなかったんです。
でも、コメントを求められて『サリン』という名前を出してしまったので、記者さんに『間違った知識を教えたなら申し訳ないな』と思ったんですよね」
一度、科学者としてサリンの話をしてしまった以上、責任を持たなければならない。
そう考えた田坂さんは、あらためてサリンに関する文献を調べた。
「驚きましたよ。ICUの図書館に、サリン製造法の論文が所蔵されていたんです。
つまり、化学の分野で大学院の学生程度の知識があれば、誰でも製造法がわかる。
自分の身近に毒ガス兵器の製造法が書かれた文献があるなんて、ゾッとしました」(田坂さん)
一方で、田坂さんは文献を読み、化学構造や製造法をきちんと理解できた。
その結論は「一般人にサリンの製造は不可能」。
長野県警は、事件翌日の6月28日に被疑者不詳のまま殺人容疑で河野さんの自宅を家宅捜索していたが、田坂さんは文献を調査した6月末の時点で「河野さんは犯人ではないのでは」と感じていたという。
このことは報道番組でコメントを求められた時にも話した。
7月7日に放送されたNHKの「クローズアップ現代」では、サリンの化学構造について模型を使って説明。
市販されている有機リン系の農薬からサリンを製造することは極めて難しいと説明したうえで、「有機リンの化学の技術と知識、文献などを知り尽くした人でないと合成は不可能」とコメントした。
サリンについて科学的な解説が報道されたことで、事件の方向性が変わるきっかけになった。
番組を見た河野さんの弁護人である永田恒治弁護士が、サリン被害で入院していた河野さんと面会するよう田坂さんに依頼してきたのだ。
都合がついた7月15日に河野さんと初めて会った田坂さんは、こんな印象を持ったという。
「話した瞬間に『犯人ではない』とわかりました。
だって、私に『サリンって何ですか?』って聞くんですから。
それで、持っていった文献を見せながらサリンの構造を説明したんですよね。
専門的知識はないし、とてもサリンのような化学兵器を製造する人には見えませんでした」(田坂さん)
河野さんの著書『「疑惑」は晴れようとも
松本サリン事件の犯人とされた私』にも、この日のことが書かれている。
<病室に見えた田坂氏に、私はてっきりいろいろ根ほり葉ほり聞かれると思っていた。
ところがそんな様子は微塵もない。
逆に、「河野さん、何かお知りになりたいことは」と聞かれる>
サリン製造疑惑についてはどうか。
<田坂氏は、素人には作れないということと、事前に押収品リストや家の写真に目を通し、我家に化学器具もないことなどから、状況としては、私には作り得ないと判断していたようだ>
河野さんと面会した夜には、田坂さんは永田弁護士やNHKの記者らとの懇親会に出席している。
その席上で田坂さんは、記者から河野犯人説について問われ、「その可能性はありません」と答えた。
永田弁護士が席を外した後、記者は再び田坂さんに質問をしたが、その時も同じ答えだった。
永田弁護士は自らの著書で、化学の専門家が記者に向けて河野犯人説を否定してくれたことが<非常に心強いものであった>(『松本サリン事件 弁護記録が明かす7年目の真相』)と書いている。
当時は、河野さんを犯人視する報道一色だった。
それでもなぜ、田坂さんは独自の判断ができたのだろうか。
「翌日には自宅にも行って現地調査をしましたが、河野さんが犯人だという証拠は何一つなかった。
それだけのことです。
ただ、その後も長野県警が私に話を聞きにくるようなことはありませんでした。
科学的な意見を軽視したことが、事件の解決を遅らせたのではないでしょうか」(田坂さん)
サリンの成分を理解し、現地調査を実施し、サリン製造が不可能であることを確かめる。
科学者だけではなく、報道にたずさわる人間にも当たり前に求められることが実践されていなかった。
田坂さんに続いて河野さんの自宅でサリン製造は不可能だと解説する化学の専門家も出てきたことで、報道も変わりはじめる。
7月30日に河野さんが退院した後は、一部ではあるが、テレビや新聞で河野犯人説にかたよった捜査のやり直しを求める報道が出るようになった。
それでも、初期報道の影響は強く、河野さんは苦しみ続けた。
報道機関がオウムの関与を認識しはじめたのは、94年11月ごろといわれている。
同月、山梨県上九一色村(当時)の教団拠点付近で採取された土を警察庁科学警察研究所が鑑定し、サリンの残留物を検出したからだ。
それで、捜査機関がオウムの調査を進めていることが、一部の報道関係者に知られるようになった。
それでも、長野県警は「河野に年越しそばを食べさせるな」と年内逮捕を目指す指示を出していたという。
田坂さんらの科学者の意見は、結局、翌95年3月20日の地下鉄サリン事件を防ぐことができなかった。
田坂さんは、「警察はなぜ、サリンの残留物が検出された時点で教団施設を強制捜査しなかったのか。
それができていれば、地下鉄サリン事件は防げたのでは」と考えている。
オウムがサリンを製造しているとの疑惑が深まるにつれ、田坂さんにも科学捜査研究所から意見を求められることがあったという。
再びサリンがまかれたらどうするのか、防護する方法はあるのか。
電話でも意見を交わした。
ただ、電話が終わった瞬間、無言電話がかかってくることがよくあった。
「今考えると、盗聴されていたのかもしれません」(田坂さん)。
皮肉にも、地下鉄サリン事件が起き、オウムに強制捜査が入ったことで河野さんへの疑いは晴れた。
4月21日に朝日新聞が河野さんへのおわびを掲載。
すると、他紙やテレビ局も続いた。
6月19日には、野中広務・国家公安委員長(当時)が河野さんに面会して謝罪。
自らもサリンの被害をうけた河野さんは、約1年ぶりに名誉回復された。
遅すぎる謝罪だった。
田坂さんは、2002年にICUを退職し、アジアやアフリカの農村リーダーを育てる「アジア学院」(栃木県那須塩原市)の学長に就任した。
世界中から集まった学生たちは、日本で農薬を使わない有機農業を学ぶ。
その技術を自らの国に持ち帰り、飢えの問題を解決する活動をしている。
アジア学院の学長を退任して79歳になった田坂さんは、現在でもブータンやマレーシアに通い、有機農業を広める活動を続けている。
日本人が安い価格で食べ物を輸入して恩恵にあずかっている一方で、アジアやアフリカの農民が農薬汚染で失明したり、神経の病気にかかったりしている。
田坂さんは、河野さんと初めて会った時と同じように、そういった人々の話に耳を傾け、科学的な事実をわかりやすく説明している。
「世界中で使われている有機リン系の農薬は、サリンのように急性の毒性はありません。
それでも、生物の神経に悪影響を与えるという点では同じです。
有機リンが子どもたちの将来に与える影響はわからないことが多い。
日本人も、農薬に汚染された食べ物を大量に食べているんですよ。
なので、日本では有機農業で作られた作物を給食に使う活動もしています」
昨年、教祖の松本智津夫(麻原彰晃)元死刑囚をはじめ、教団幹部13人の死刑が執行されたことで、オウム事件は大きな区切りを迎えた。
だが、サリンは現在でも化学兵器として使われている。
欧州連合(EU)などで人体に悪影響を与える可能性があるとして禁止されている農薬も世界中で使用されていて、その害に悩む農家も多い。
田坂さんにとって「なぜ、優秀な頭脳を持つ人たちが化学を悪用するのか。
どうやれば防ぐことができるのか」という問いは解決していない。
田坂さんは、今でも事件についてこう考えている。
「私にとって、松本サリン事件はまだ終わっていません」