集団自決の遺構を荒らしたのは少年だった。戦後生まれが当たり前になった沖縄の苦悩
2019/08/05 週刊女性PRIME [シュージョプライム]
沖縄戦で住民85人が「集団自決」(強制集団死)に追い込まれた読谷村(よみたんそん)のチビチリガマが、2017年、沖縄の少年たちに荒らされた。
彼らは「肝試し」でガマ(洞窟)に入り、動画撮影もしていた。
なかには住民が死を選ばされた凄惨な戦跡であることを知らない者もいた。
激しい地上戦で県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。
生活圏に戦争の遺構が存在し、その体験が語り継がれてきた土地で起きたガマ荒らしは、衝撃をもって受け止められた。
戦後74年。
戦争体験者の高齢化が進み、戦後生まれが人口の8割を占めるなかで、悲惨な記憶をどう伝えていくべきなのか。
「落ち着け」と自分に言い聞かせた
「チビチリガマの様子がおかしい」
読谷村の彫刻家、金城実さん(80)は'17年9月12日、ガマを訪れていた平和運動家の知花昌一さんから一報を受けた。 駆けつけると、看板が壊され、千羽鶴が引きちぎられ、ガマ内部の遺品や遺骨までもが荒らされていた。
金城さんは湧き上がる怒りの感情を抑え、「落ち着け」と自分に言い聞かせながら、遺族がどんなに悲しむだろうか、と考えていた。
チビチリガマに設置された「平和の像」は、金城さんと遺族たちが1987年に共同で制作し設置したものだ。
しかし、その半年後に襲撃・破壊されたという過去を持つ。
「また右翼だろうか」と、金城さんは思ったという。
だが数日後、犯人が少年であることがわかる。
事件から1か月が過ぎたころ、金城さんのもとに那覇地方裁判所から依頼書が届く。
それは、少年たちの保護司になることだった。
保護司とは、罪を犯した少年が円滑に社会復帰できるよう保護観察官と連携しながら指導やアドバイスを行う立場にある。
「なんでよ?」というのが、金城さんの最初の感想だった。
自分はチビチリガマに関わってきた人間として被害者だ。
なぜ加害者に協力しなくてはならないのか。
金城さんは悩み、チビチリガマ遺族会の会長に相談に行った。
すると「自分のところにも(依頼書が)きている」と会長は言った。
迷いながらも引き受けることにし、保護司のマニュアルが届くと、金城さんは再び疑問を抱く。
数回の面会と社会奉仕で更生させるとある。
公園の掃除、老人ホームの奉仕……「気に食わん」。
金城さんは独断でやり方を変える。
初めての面会日は、遺族、地域の長老もチビチリガマの前に集まった。
少年たちとその親、保護観察官もやって来た。
少年の中には金城さんの孫と同年齢の子どももいた。
ある人が「読谷村の子どもではなくてよかった」と言った。
金城さんはその言葉が引っかかった。
もしかしたら自分の孫だったかもしれない。
「身内ではなくてよかった」ですむのだろうか。
これは、体裁を繕う話ではなく、人間の生き方の問題だ。
そして、悪いことをするには理由がある、と金城さんは思った。
「少年らと付き合って自分も勉強した。背景を知ることにしたんだ。彼らは何者や、と」
わからない世界を生きとる
金城さんは誰かが亡くなると、葬式では必ずその人の歴史を語る。
どう生まれ育ち、どう戦後を生きたか。
金城さんは少年たちと1年以上かけて野仏を作った。
その作業を通し、人間の生き死にに関心を持ち、チビチリガマで死ななければならなかった命にも思いを馳せてほしかった。
金城さんは、ある1人の少年が気になっていた。
親に育児放棄されて育っていた。
1年後、全員に反省文を書かせたところ、よいレポートを書く少年たちのなかで件の少年のレポートは誠意を感じられなかった。
少年たちを知れば知るほど、「わからない世界を生きとる」と金城さんは感じた。
例えば、無職の少年。
若くして結婚し、離婚の末、自分がされたように育児放棄をしてしまう少年。
その一方、世間には裕福な子どももいる。
同じ世代でも、環境の差によってまったく違う多様な歴史をたどっている。
金城さんは、沖縄の少年犯罪について保護観察官に聞いた。
事件のあった'17年は約1万5000件の少年犯罪があったと知る。
沖縄県の人口の約1%に当たる。
金城さんは驚いた。
もうすぐ、事件から2年がたつ。
少年たちの複雑な背景を金城さんは間近で見続けた。
「彼らを見ていると悲しい。
これでいいのかなと、俺が深みにはまってしまった。
保護観察官から連絡はないが、保護司をやめたつもりはない。
これは、宿題だ」 そう金城さんは言った。
思ったことを言っていいんだよ 「“戦争はいけないと思いました。亡くなった人がかわいそうです”。これが正解、という言葉しか出てこない。
それに何の意味があるだろう、と落ち込んでしまって」 そう話すのは、那覇市の親川志奈子さん(38)。
『島くとぅば』(島言葉)や『うちなーぐち』(沖縄語)復興の研究をし、今年から自分の住む地域の学童指導員も務める。 沖縄戦のことを子どもたちに伝えても「自分ごと」につながらない印象がある。
「これまでは、伝える側のやり方に課題がおかれていました。
でもいま、80〜90代の、これまで伝え続けてくれた戦争体験者にテクニックを磨いて、という話ではないと思う」
言語復興の研究をするなかで親川さんは気がついた。
言語は、生まれながらにその言語を話す“ネイティブスピーカー”が教えなくてはならないという思い込みがあるが、海外では弟子や学生の役割が大きい。
かつて沖縄の言葉を禁止され、日本語を話さないと殺す、とまで言われた時代があった。
その世代の人に「いかにうまく、うちなーぐちを伝承するか」を背負わせるのは酷な話だ、と考える。
「沖縄戦の継承も同じ。むしろ聞く側の聞く力、自分とつながっている問題だという意識を作ることが私たち世代の役割だと思う」 と親川さん。
さらにこう続ける。
「若い人は、貧困やDVなど、いまの社会の厳しさを抱えています。
その中で、学びの環境を整えることは難しい課題。
チビチリガマの事件も、学ぶ環境に立たせてあげられない沖縄社会、私たちの問題でもあると思っています」
学童指導員をしていると、沖縄で生まれ育った子どもだけではなく、沖縄県外からの移住者も、アメリカ人とうちなーんちゅ(沖縄人)を親に持つ子どももいる。
多様なルーツを持つ子どもたちがいて、それがリアルな沖縄だとわかる。
そうした実態を踏まえ、例えば沖縄戦について、自決を強要した日本軍が悪い、侵攻したアメリカ軍が悪いといった二項対立の話にとどまらず、丁寧に伝えていかねばならない。
だが、そう考えていても、子どもたちは「戦争はだめ、かわいそう」と判で押した感想を言い、「平和学習を乗り切った」ように思っていると感じる場面さえある。
「でも、そうさせられている彼らも気の毒に思います。
沖縄戦について、思ったことを言っていいんだよ、と言ってあげたい」(親川さん)
沖縄戦体験者の次世代にあたる自分たちで、戦争の記憶をつなぐ環境整備を試行錯誤していきたいと話す。
全てを分かることはできない、だからこそ 沖縄戦の継承は、沖縄だけの問題だろうか。
西尾慧吾さん(20)は大阪府出身の大学生。
4年前の高校生のときに、修学旅行先の沖縄で「戦後70年(当時)たっても、遺品や遺骨がガマから出てくる」という現実を知った。
沖縄戦、米軍基地問題など、何も知らないまま、それを問題にも思わなかった自分にショックを受けた。
その後、遺骨や遺品を集め続けている国吉勇さんに会いに何度か生徒会で沖縄に通い、沖縄戦体験者の話も聞きながら沖縄戦についての学習を続けた。
翌年、高校の文化祭で沖縄戦の遺品の展示会を開催した。
西尾さんは現在も、「沖縄戦遺骨収容国吉勇応援会」の学生共同代表として全国各地で沖縄戦遺品展を開いている。
また、修学旅行で沖縄に行く中高生にも授業を行っている。
授業では、例えばこんな話をする。
タンスの飾りが見つかった糸満市の壕は、日本軍の陣地壕跡。
最初は戦火を逃れるために住民が壕に住んでいたが、陣地壕にするために日本軍が住民を追い出した経緯が遺品から想像できる。
アメリカの攻撃による悲劇だけではない、日本軍から犠牲を強いられた沖縄戦の事実。
そのため沖縄では、国吉さんの活動に賛否があると西尾さんは言う。
「日本軍に追い出された住民は、逃げ惑う中で殺され、壕の中で死ぬことすらできなかった。
少なくとも3000のご遺体がいまだに発見されていません。
壕の遺骨や遺品は日本軍のものも多いんです」
その矛盾に向き合うべきなのは私たち「本土」の人間だと西尾さんは言う。
沖縄戦から基地問題へとつながる、沖縄を犠牲にする構造の中に自分もいる。
展示活動をしたからといって加害性からは逃れられない。
「差別は、差別する側が変わらないといけない。
これ以上加害者になりたくないという痛みがないと、差別はなくならないと思うんです」
「本土で伝えてほしい」という思いとともに、遺品を託してくれた沖縄の人の思いをつなげたいと考えている。
西尾さんが言う。
「継承は本当に難しい。
その人のすべてをわかることなんてできないんです。
でも、その世代の方の経験のコアを受け取り、現代に意味づけして自分はこうする、と考えられる伝え方ができればと思っています。
その過去から見える現在があると思うんです」
(取材・文/吉田千亜)
吉田千亜
◎フリーライター、編集者。東日本大震災後、福島第一原発事故の被害者・避難者への取材を精力的に続けている。
『その後の福島:原発事故後を生きる人々』(人文書院)ほか著書多数