故・日野原重明さんは、あの「地下鉄サリン事件」でどう行動したか
1/13(月) 現代ビジネス
「とにかく助ける」
誰の人生にも、大きな決断を求められる瞬間というのはやってくる。
そういうときにこそ、人間の度量が試されるものだが、元聖路加国際病院院長の日野原重明さん('17年に105歳没)にとって、それは'95年に83歳で遭遇した「地下鉄サリン事件」だった。
内科医として、聖路加看護大学の学長や、国際内科学会会長などの要職を歴任してきた日野原さんは、80歳にして院長への就任を請われ、無給で職務にあたっていた。
3月20日の午前8時30分、日野原さんはいつもどおり朝の6時40分に自宅を出て病院に出勤し、7時半から幹部を集めた定例の会議を開催していた。
そこに、事件の一報が届く。
「地下鉄で、大きな爆発事故が起きたようだ」
8時40分には、病院内に緊急の呼び出しがかかり、医師たちが救急センターに集まってくると、救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら、次々と患者を運んできた。
「目が痛い」と泣き叫ぶ人がいれば、すでに心肺停止の人もいる。
「いったい、何が起こっているのか」
目を覆いたくなるような光景に、日野原さんは絶句した。
当時、聖路加病院の救急部の医員として現場に立っていた奥村徹氏が回想する。
「火事か爆発かという話だったのに、実際に患者が来てみると、誰も煙を見ていないし、爆発音も聞いていない。
みんなが『なにか、おかしいな』と考えている間にも、重症や重体の人々が次々と運ばれてくる。
普通、心肺停止の人は瞳孔が広がるものですが、それがあのときの患者は全員が『縮瞳』といって、小さくなっていた。『これは異常だ』と現場も動揺していました」
今でこそ、そうした健康被害がサリン散布の影響によるものだったことは広く知られているが、事件直後にその状況は明らかになっていない。
何もわからぬまま、集まってくる患者の数は刻一刻と増えていく。
パニックになってもおかしくはない状況のなか、日野原さんはベテラン医師らしい冷静さで状況を見極めていた。
「何が起きているかはわからないが、いまはとにかくこの患者さんたちを助けるしかない」
「責任は自分が取る」
一度腹をくくると、日野原さんの動きは年齢を感じさせないほど早かった。
すぐさま緊急事態宣言を出し、その日の外来診療の受付を中止。
すでに麻酔のかかっていた患者を除くすべての手術を延期してオペ室を空けた。
短時間の間に約100人の医師と、300人の看護師や助手、そして聖路加看護学校の学生も含め、病院の総力をあげて緊急態勢を整えた。
ちなみに当時、建て替えられたばかりだった病棟は、大災害の発生を見据えた日野原さんの要望により、壁面に酸素の配管が2000本近く張り巡らされ、収容所として使えるように広いロビーや礼拝堂施設まで設けられていた。
こうした環境が、応急処置場として活用されることになる。
「日野原先生は、あれだけの人なのに権威主義的なところがまるでなくて、院内で『ひのじぃ』とあだ名される存在でしたが、あのとき見せたリーダーシップは素晴らしかった。
『来た患者さんは責任を持って聖路加で診る。断るな』と基本方針を決め、『最終的な責任は俺が取るからあとは自由にやってくれ』と。
現場を信頼し、すべてを任せてくれた。
おかげで、みんなが持てる力を尽くして処置にあたることができました」(前出・奥村氏)
日野原さんはまず、外科系の副院長に「トリアージ」を実施させた。
これは、患者の症状を見極めて、重症、中症、軽症にわけ治療の優先順位をつけていくというもの。
患者の生死を左右するため、一瞬の判断力が要求される。
平時の医療現場では行われることはないが、サリン事件のように症状の程度が違う患者が次々と搬送される状況には不可欠の処置だった。
そして内科系の副院長には原因の究明を指示。
看護部長を兼務した副院長には、退院できる患者を退院させて治療のスペースを確保させた。
「救える人を救うのは当たり前じゃないか」
こうして、トップとしての決断が必要な部分で的確な指示を出すと、あとは部下たちに任せて、病院内を飛び回った。
「外部に対する情報の公開も迅速でした。
混乱している患者さんや一般の人たちに向けて『いま、何が起きて、どこまでわかっているのかをすぐに伝えなくてはダメだ』と、10時半には緊急の記者会見を開いた。
運ばれてきた患者さんたちに向けては、状況を説明した小さな紙を作って随時配布していました」(奥村氏)
この一日だけで聖路加国際病院は640人の患者を収容、事件後1週間で対応した延べ患者数は、約1600人にのぼった。
のちに病院のある日比谷線の築地駅は、小伝馬町駅、霞ケ関駅に次いで多くの被害者が出た駅だったことが判明する。
全病院をあげて患者を受け入れるという日野原氏の見事な決断がなければ、犠牲者はもっと増えていただろう。
「あとになって『いろいろな病院に分散して治療するのが正しかったのではないか』と批判する声もありましたが、日野原先生はどこ吹く風という感じでした。
『緊急時に救える人を救うのは当たり前じゃないか』という感覚だったのだと思います」(奥村氏)
そしてこの経験は、日野原さん自身のその後の人生にも大きな変化をもたらした。
翌'96年に院長を退き、理事長に就任すると、自らの経験を世の中に伝える活動に精を出すようになったのだ。
生前、日野原さんが死の直前まで連載を続けていた雑誌『ハルメク』の副編集長・岡島文乃氏が回想する。
「晩年まで信じられないような過密スケジュールの中で仕事をされていました。
内科医として診療の現場にも立っていたし、各地で講演もたくさん入っていた。
『医療の最新情報はやっぱり向こうに行かないと手に入らない』と、年末にはかならずアメリカに出張もされていた。
あまりにもお忙しいので、お昼ご飯のあいだや、移動中の車内などで話を聞かせていただくことも度々でした」
誰のために100年を生きるか
なぜ、そこまでして働き続けるのか。
日野原さんは「召命」という言葉で表現していた。
「『この命は人のために生きるよう授かったものなのだ』ということでした。
お父さんが牧師さんなので、キリスト教の考え方もあったと思いますが、いっぽうで、地下鉄サリン事件など医師として立ち会った極限の現場で見たことが、先生の人生観に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。
本当に立派な方でしたが、チャーミングなところもたくさんありました。
講演会でも『いくつですかと聞かれると、いつも65歳と答えちゃうんですよ』なんて冗談を飛ばして会場をドカンドカンと沸かせていた」(岡島氏)
むろん、誰もが日野原さんのように、最晩年まで働き続けることができるわけではないし、無理をしてまで誰かに尽くそうとする必要もないだろう。
だが、「何歳からでも創めるのに遅くはない」と説き続けた日野原さんの生きざまは、我々に勇気を与えてくれる。
「今のように『人生100年時代』と言われるずっと前から、
日野原先生は『人はいくつになっても変わることができるのだ』と信じ、自身も最期までそれを実践された方でした。
『より良く生きたいという思いを抱き続ける人にこそ、幸せは訪れる』。
先生の言葉を、私は生涯忘れることはないと思います」(岡島氏)
105年という途方もない道のりを、鮮やかに駆け抜けた一生だった。
週刊現代
2019年12月28日・2020年1月4日合併号より