「闘う政治家」野中広務の足跡 “叩き上げ政治”の無念
6/21(日) JIJI.com
菊池正史 日本テレビ政治部デスク
影の総理
京都府の副知事まで務めてから国会議員となり、「影の総理」とまで呼ばれた政治家がいた。
ご存じであろう、2018年に92歳で亡くなった野中広務だ。
自民党を離党した小沢一郎らと激しい権力闘争を展開し、「政界の狙撃手」「闘将」の異名を取った。
自治相、内閣官房長官、自民党幹事長など要職を歴任。
戦後の自民党政治において圧倒的な権勢を誇った田中角栄元首相の系譜を継いだ最後の実力者だった。
地方から叩き上げた、その政治人生を検証し、私は2018年の年末に「『影の総理』と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理」を上梓した。【日本テレビ政治部デスク 菊池正史】
日本テレビ政治部の記者として私が担当したのは1994年から1年余り。
しかし、その魅力に引き付けられ、2003年に野中が政界を引退した後も、たびたび、事務所を訪ねては取材を続けた。
野中は、1925(大正14)年生まれ。
敗戦の直前に19歳で陸軍に召集され、高知で本土防衛に当たった。
社会が軍国主義一色に染まっていくことの恐怖、そして戦争の悲惨さを実感として知る最後の世代だった。
私が、この書で伝えたかったことは、戦争を知る世代を失うことの危うさだ。
野中も、戦前は軍国青年だった。
召集令状が来ることを一日千秋の思いで待ち続けたという。
多くの人々が緒戦の勝ち戦に熱狂し、反対意見を「非国民」と叫んでかき消した。
軍部が権力を握り続け、軍国主義教育が徹底され、市井の人々までがその片棒を担いだ。
揚げ句の果てに敗戦。300万人が犠牲となり、人心は荒廃した。
野中は世の中が「一色に染まる」ことの怖さを知った。
自らも軍国主義に染まったことに苦しんだ。
そして戦争責任者を憎んだ。
戦時中首相を務めた東条英機の暗殺も試みた。
実際に、そのために上京したとみられる仲間を1人失った。
後にその死を知った野中は、こう語っている。
「これは今、心残りですよ。知っておればね、私も宮城前で腹切ったんじゃないですかね」
復員後、野中は民主主義を学び、広げようと青年団活動に没頭した。
そして弱冠26歳で、生まれ故郷である京都は園部町(現南丹市)の町議に当選し、長きにわたる政治家人生を「一色には染めさせない」
「守るべきは平和であり、反戦であり、国民を中産階級にすること」 これが野中の保守政治の信念だった。
野中には腰から脚にかけて大きな傷がある。軍隊時代のものだ。
「戦争の傷は俺の体に染み込んでいる。理屈じゃない。絶対に戦争はさせない」 野中は親しい記者にこう語っていた。 だからこそ、戦前のように一色に染まってしまう可能性をはらむ民族性と、一色に染めようとする権力を警戒し、徹底的に闘うことを心に誓った。
野中にとっての保守政治とは、軍国主義に染まった日本を否定することだった。
軍備増強よりも経済を優先し、戦争の傷跡を修復しながら協調外交に徹するという、新たな政治理念を守りぬくことだった。戦前の日本に対する「新たな保守」の始まりだった。
この「新たな保守」は、弱者を救済し、富を等しく分配し、平等な「中産階級」を構築しようとするリベラリズムと共存したという点で、「リベラル保守」とも言えよう。
それは戦前、「お国のため」と言って切り捨てられた、個々人の人権、人々のささやかな幸せを、国の内外で何よりも大切にする政治だった。
しかし、戦後になっても、「一色に染める」残滓は存在した。
村々の古き因習、そして企業戦士を支配する組織の論理にも根強くはびこったままだった。
そして野中は、その残滓を、まず、当時の共産党に見いだした。
戦後の食糧難、社会的不安、それに反発する国民運動を背景に、反権力としての影響力を強めていた共産党だが、野中は、その組織運営は画一的で独善的、排他的だと批判した。
「反権力に潜む権力」の本質を警戒した。
実際に共産党が支配したソ連や中国は、高級官僚にリーダーシップと富が集中する不平等な社会だった。
共産主義を世界に敷衍しようとする行動が、諸外国との新たな紛争を生んでいた。
当時の京都は、共産党を支持基盤とした蜷川虎三府政の全盛期だった。
1950年から7期28年にわたって府知事として君臨した蜷川に、役所の幹部らが忖度し、多くの市町村長らが忠誠を求められたという。
実際に、蜷川が5選を目指す府知事選の時、東京に出張して「洞ケ峠を決め込む(有利な方に付く)」と報じられた野中に対しても、府の総務部長が「すぐに戻って身の証しを立ててほしい」と命じたという。
「公選で選ばれた町長に、役人が何を言うか!」 野中は激怒した。
それまで、疑問を抱きつつも蜷川と友好な関係を維持し、従ってきた野中だが、これを機に蜷川府政と決別し、共産党との闘いを繰り広げることとなった。
この頃を、次のように振り返っている。
「京都府という革新府政、京都府という地方自治はあるけれど、京都府に隷属するかどうかによって市町村の自治が決められている。
京都の市町村には地方自治など存在しないという感じがした。
こういう京都府政を続けさせることはいけない」
1978年、野中が立役者となって自民党の林田悠紀夫知事を誕生させ、長期にわたった蜷川府政を幕引きに追い込んだ。
その後、林田府政で副知事を1期務め、1983年、57歳という年齢で国政へ進出した。
「子どものような大人の時代」
国政進出後も、野中は「強力な権力」と闘い続けた。
1990年代は、剛腕と呼ばれ小選挙区導入の改革を断行した小沢一郎と、そして2000年代に入ってからは、劇場型政治で「抵抗勢力」を殲滅し、自衛隊の海外派遣などを実現した小泉純一郎と激しく対立した。
小沢も小泉も、戦後保守が大切にした調整文化を否定した。
時間がかかる妥協や根回しを嫌い、敵と味方を峻別して二極対立を演出し、多数決を振りかざして、たとえ1票の勝利であっても勝ちは勝ちだと強力なリーダーシップをわがものにした。
小沢は途中で失敗したが、刺激的な劇場の演出に成功した小泉は、高い支持率を維持しながら「1強」状態をつくり上げた。
「政治家が立派な理念を掲げても、それで国民が本当に幸せになるかどうか分からない」
こう野中は常々語っていた。
これこそが、戦争によって300万国民の命を犠牲にして学んだ教訓だった。
実際に、小沢が導入した小選挙区制は、目的だった政権交代可能な二大政党制とは程遠い状況を招いている。
執行部に何も考えず従う政治家のチルドレン化を急激に進めていることも確かだ。
また小泉の市場至上主義は、格差拡大につながったと批判され、郵政民営化はいまだ評価が分かれるところだ。
ことほどさように強いリーダーの判断は、危うく、曖昧な部分があるということだ。
こと戦争につながる問題は、失敗が許されない。
だからこそ、リーダーの決断だけに委ねていいはずがないのだ。
< 今、振り返れば、この2人との野中の闘いは、単なる権力闘争の枠を超え、まさに、国が「一色に染まる」ことへの警鐘であり、絶対にそうはさせないという政治家としての覚悟だったと、私は考えている。
今は「安倍1強」と呼ばれる時代となった。
役人は忖度し、財務省では森友問題について安倍の関与につながる公文書の改ざんまで行われた。
政府の方針に沈黙する議員も増え、活発な党内議論すら聞こえてこない。
つらくても議論をして、反対意見もある程度吸収しながら落としどころを調整するという「大人の政治」は、すっかり衰退してしまった。
敵に悪態をつき、やじり倒し、妥協することのない「子ども」のような振る舞いが、「強さ」として評価される時代になった。
そして、強い米国には言われるままに追随し、韓国には強気に出て留飲を下げるような、「子どものような大人」が増えてきた。
「“叩き上げ”の弱点」
なぜ、こうも簡単に、野中が守り続けた「リベラル保守」の理念は影響力を失ったのか。
深みのある「大人の政治」は崩壊しつつあるのか。
悲惨な戦争の記憶が薄れたことだけが原因なのだろうか。
いや、それだけではあるまい。
やはり、「リベラル保守」を継承するリーダーが育っていないということも大きな理由だろう。
そして、これは野中が唯一、置き去りにしてしまった仕事だ。
残念ながら崇高な理念も、それだけでは呪文と変わらない。
権力と結び付いてこそ人々を動かし、時代の精神となり得る。
野中は、弱者のために強くなければならないことを知っていた。
弱者と共に歩むだけでは、弱者を救えないことを知るリアリストだった。
だからこそ、強力な権力を求めて権謀術数を繰り広げ、政敵を執拗に攻撃したのだ。
しかし、野中は、その政治を引き継ぐ、次のリーダー、実力者を育てることがなかった。
野中の意思を引き継いで、「子どものような大人」たちを叱り飛ばす後継者を育てなかったのだ。
なぜなのか。野中を長年支えたあるスタッフが私にこう話したことがある。
「野中は苦労してきたからこそ、思いやりがあり、親身になってわれわれの相談にも乗ってくれた。
しかし、人を心から信頼することはなかった。
これは叩き上げの性だと思う。
苦労して得た価値観は、だれも実感できないし、共有できないと思ってしまうから、すべて自分がやらなくては気がすまなくなってしまう」
確かに「叩き上げ」のリーダーは、全てを自分で仕切ろうとする。
かつて、土建会社の社長から首相にまで上り詰め、野中たちを率いた田中角栄も、毎日の陳情から国政の細部まで、全て自分で取り仕切った。
秘書たちが「他の人に仕事を振ってくれ」と言うと、「政治家は代理の利かない商売だ。お前たちに任せていたら日が暮れる。人生は、それほど長くはない」と言って怒ったという。
野中は、身内の一人が、後継者になりたいと申し出た際、「やめておけ。おれがいなくなったら苦労する」と言って止めたという。
田中が言ったように、「代理の利かない商売」であることを自覚していたのだろう。
そして何よりも、特定の権力者とそのファミリーが権力に執着することを嫌った。
権力には世の中を「一色に染めよう」とする衝動が潜む。
野中は自らを戒め、その衝動を自制した。
森喜朗内閣で自民党幹事長となり、「影の総理」とも呼ばれていた絶頂の時代、あるインタビューに答えて、野中は、こう述べている。
「私の人生は戦争で死ねんかった付録の人生です。責任の取り方だけは明確にしたいという気持ちがあるんです」
内閣官房長官は1年2カ月、自民党幹事長は8カ月で自ら辞めた。
最後は、小泉との権力闘争に敗北し、政界から引退した。
この権力に対する淡白さが、継続性という点であだになったと思われる。
戦争の記憶が失われつつある時代となり、それでも爪を立てて野中たちの思いを国民に引き継ごうとする「権力者」がいなくなった。
戦後政治を支えた「リベラル保守」の精神が、今、迷走している。(文中敬称略)【時事通信社「地方行政」2019年10月7日号より】
菊池正史(きくち・まさし)
日本テレビ政治部デスク。1968年生まれ。
慶應義塾大大学院修了後、93年日本テレビ入社、 政治部に配属。
旧社会党、自民党などを担当し、2005年から総理官邸クラブキャップ。
11年から報道番組プロデューサー等を経て現在は政治部デスク。
「著書に「官房長官を見れば政権の実力がわかる」(PHP研究所)、「安倍晋三『保守』の 正体」(文藝春秋)などがある。
おかげさまで不眠はともかく体調戻りつつあります。
野党でなく与党から今の政権批判声上げる人待つ。
私的に何だかなぁです。
完全に戻るまでは静養第一でいてくださいいね。
今の野党の幅の狭さ、包容力のなさをみていると 安心して支持をして政権交代だとは 言えないですよね。
ただ自民党もリベラルが絶滅して 権力亡者 金亡者が多数派になってしまいました。
もう党内での自助作用は期待できなくなりました。
べ平連のような政策ごとの連帯が期待されます。
山本太郎君は今 リベラルになるか 左派セクトになるか 危うい状態に見え 幅が広がらないのが残念です。