「コロナ第二波」の危機、「空気」が支配し続ける日本を批判する
7/28(火) 現代ビジネス
堀 有伸(精神科医)
いま第一に行なわれるべきこと
日本の社会や文化、政治について批判的なことを論じるのは控えようと思っていた。
しかし昨今のCOVID-19感染症をめぐる状況を見聞し、やはりモヤモヤしてしまうことが多く、もう一度「日本的ナルシシズム」の批判を書こうと考えた。
少なくない方がそうだと思うが、私もGo Toキャンペーンに賛成はできない。
観光業に従事している方々が逼迫していることは分かる。
しかし、今、強調するべきことはそこだろうか。
無事に治療薬やワクチンが開発され、臨床的に安定的に使用されるようになり、事態が収束したとみなされるまで、まだしばらく時間がかかると予想される。
その場合に、検査体制を拡充し、感染者や重症者が増えた場合に必要とされる物資・人員を確保するなど、国民の安全と安心を支える状況を準備することが、第一に行なわれるべきである。
その後に、この感染症の影響によって経済的な苦境に陥らざるをえない人々への対策がなされるべきだ。
しかし、その安全対策をなおざりにしたままで、「経済のことを軽くみて感染症の脅威を強調するのは誤り」といった空気をつくり、経済対策としても国全体というよりは、一部の業界を偏重している政策の実施を急ぐ為政者に、不信の念を持たざるをえない。
原発事故が起きる前に津波による事故のリスクが指摘されていたのに、それを無視したことが大きな代償を要求したことを、もう忘れてしまったのだろうか。
オリンピック開催への執着
現在の政府からはさらに、来年に延期されたオリンピック開催への執着が感じられる。
これは、一つ一つの手順を踏んだ上での実現を目指すのならば素晴らしいが、感染症の制御に十分なコストをかけようとせずに、「そこにこだわるのは経済を軽視し、経済的な事情で困窮する人を顧みない道徳的に劣った行為」という空気をつくって感染症への不安を押し込めて、その上での開催を目指しているのではないか、という懸念を抱いてしまう。
今年2月頃を思い出そう。
その頃はまだ、今年に東京オリンピックを開催したいという政府の執着は明らかで見やすかった。
そんな時に、横浜港での大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号についての対応が、日本内外から批判を集めた。
この批判に対しては、関係者からの強力な反論が行なわれた。
その後にオリンピックの延期が決定され、首相による緊急事態が宣言される事態となった。
緊急事態宣言中に、国民はよく自粛した。
そして、不用意な行為で感染した人々は近隣の日本人から強い批判を受けた。
専門科会議は「新しい生活様式」を提唱するなど、国民を良く主導した。
そして5月25日に緊急事態宣言が解除された。
「まだ油断するのは早いだろう。このように制限を緩めることと厳しくすることを、この2〜3年の間は数回くり返すのだろう」というのが、私が持っている予想だ。
しかし、4〜5月の自粛生活で生じた被害や欲求不満を、そのままでは受け入れがたいと感じた人々が少なくなかったのかもしれない。
専門家会議が突然解散された。
Go To キャンペーンのニュースが聞こえてきた。
日本が歴史の中でくりかえしてきたパターンが、もう一度くり返されているような気がした。
そのパターンとは、「緊急時には一丸となって、素晴らしい知恵と努力を発揮して見事に切り抜ける。
しかし、少し余裕が出来たときに、緊急時に成立したシステムの見直しを行なわず、全体的な状況を調査して大規模で徹底したシステムを構築することを行なわず、大きな行動のデザインを欠いたまま、だらだらと緊急時のシステムを使い続ける」とまとめることができるだろう。
さらに、「緊急時に多くの負担を担ってくれた人に感謝や報酬を与えず、ラッキーと思ってそのまま潰れるまで安く使い続ける」というのが、最近顕著になってきた傾向かもしれない。
「一つの空気」を尊重すると…
私は、新型コロナウイルス感染症の対策として、PCR検査を含めた検査体制は拡充されるべきだと考えている。
もちろん、感度や特異度についての議論があることは知っている。
そうであっても、「定量的な議論が可能となるような数の検査が実施されなければならない。その時に実施できる検査が問題の少ないものであるならば、それは望ましい事態である。
しかし問題のある検査でも、それしかないのならば、それが行なわれないよりは行なわれる方が望ましい」と考えている。
しかし、3〜4月くらいの医療崩壊の危険があったタイミングでは、PCR検査の数を急に増やして現場に負担をかける判断を行なわなかったのは、正解だったと考える。
一方で状況が落ち着いて余裕ができたタイミングでは、今後も危機的な事態が続くことを予想し、少しでも判断の材料を増やすための検査体制の拡充が行なわれるべきだろう。
諸外国と足並みをそろえることで信頼関係が構築できるという目的もある。
厳密に感染のリスクを評価したい国が、検査数が少ない日本の国民を、潜在的な感染者とみなすようになることは、十分にありえる事態である。
このような現象が反復することを可能にする深層の心理を、私は「日本的ナルシシズム」と呼んで批判してきた。
「一つの空気」を尊重すること、その空気を尊重する人々の中での序列を絶対視することで、生きていくことができる、あるいはそれを離れては生きていけないという信念である。
しかし、このような心理で生きている人は、「感染症対策」と「経済対策」という二つの空気が矛盾・葛藤する状況で、考えることも決断することもできなくなるだろう。
可能なのは、権威的な断定である。
近代の「民主主義」「自然科学」「自由主義経済」などの仕組みは、複雑な世界の中で、自ら責任で決断を行なう「人間」を、制度の前提としている。
決断が可能となるためには、そのために必要な学術的なデータを収集し、それを自らが構築している世界観の中に当てはめ、その上で周囲の局地的な状況を見極めて、自らの責任で決断を行なう人間と、そのような人間を育てて支援する教育が必要である。
そして、決断を積み重ねた上に個人の歴史が生じ、そのような個人が集まってできたものとして社会や国家の歴史も積み重ねられる。
しかし、現在の日本社会では、「官」も「民」も、少なくともその表層において、このような近代社会の理念としての人間となること、決断の責任を負うことを必死で回避しているように見える。
できれば、リスクのあることは他の人に丸投げして、自分は成果にだけ乗っかりたい。
最近では、経済活動の自粛による痛みを国民に求めることを、「専門家会議」に言わせた政府の振る舞いのことを、例としてあげることができるだろう。
そのように責任を回避している無意識の罪悪感を紛らわすため、あるいは自分ができないことを行なっている人への羨望の感情を晴らすため、「空気に逆らっても」自分としての決断を行なう人々が、日本では強い批判と攻撃の対象となる。そしてそのような「空気を読まない人」を軽蔑することが教育される。
その人々が実績のない人ならば、そのまま捨て置けばよい。
しかし、実績のある人ならば、安い名誉を与えて使役し、なるべくその成果は上位の人が吸収するようにする。
そのような悪循環が生じて、ますます日本社会における「決断」は困難となる。
能力のある人は使い潰されて疲弊し、新たな人材の育成が困難になる。
人材の流出も続くだろう。
残念ながら将来的な発展は期待できず、持っている蓄えを少しずつ減らすことになるだろう。
なぜ不利な条件を受け入れるのか
なぜ、少なくない普通の日本人はそのような不利な条件で働くことを受け入れてしまうのか。
そうしないと道徳的な教育の名目で、タテ社会の上位にある人からいじめられることを知っているからである。
たとえ上位の人が直接手を下さなくとも、同じくらいの序列の「空気を読まない」人を攻撃することで、上位の人から報酬が与えられることを期待する序列の近い他の日本人が、上位の人の意向を忖度して攻撃を始める。
この攻撃は、普段抑圧されている攻撃性を、共同体の承認の下に発散できる機会なので、強い快楽を伴っているし、一体感も育まれやすい。
逆にもしその攻撃性の発露が妨げられた場合には、強い欲求不満を生じる。
そして、そのような攻撃性の発散の対象にならないように、目立たず空気に合わせて振る舞うことが普通の日本人にとっての最適な選択となりやすい。
私がこのような発言をすると、「批判や他の人の悪口を言う不道徳な人間は信用しなくてよい」といった類いの反応を受けることが少なくない。
しかしこのような反応こそが、自分の美的・感性的判断を、基本的人権のような普遍的な理念よりも優先させる行為で、日本的ナルシシズムの中核的な現象である。
「それを認めると自分の心がもたないから」という理由で誰か他の人に責任を押しつける行為が、倫理的に重大な問題であるという認識が薄い人々がいる。
しかし、基本的人権は、「村の掟」よりも尊重されねばならない。
「自分も他人も『手段』として扱うことなく、『目的』として扱いなさい」という倫理についてのカントの発言を思いだそう。
現状の日本では、あらゆる立場の人が「手段」となってしまったかのようだ。
混沌とした状況の中で、その時に影響力の大きい人の意向が刹那的に実現されていき、統一性はない。
そもそも誰の意向かが隠されていて、一貫性がなく、記録も残らないので、その行為は検証できない。
何が起きているか分からず疑心暗鬼のまま、ズルズルベッタリと義理に引きずられながら消耗戦を戦わざるをえないような不安を感じる。
日本的ナルシシズムからの脱却へ
さて、もう一つ付言しておく。
私にももちろん政権への不満はある。
しかし同時に、私は政治的でありたくないと思っている。
日本における社会や文化の問題として日本的ナルシシズムの問題を考えたい。
政権が批判されるべきではないとは思わない。
しかし、政権のみにすべての悪の原因を帰属させ、それを強く攻撃して打ち倒せばよいと考えるのも、私には「一つの空気への隷属から抜けだし、自ら主体的な決断の責任を担う」行為とは思えない。
反権威的な言動を中心的に展開する日本的リベラルと呼ぶべきような人々も、内部では上記のような序列をつくり、同じような力学の中で動いているように見えることがある。
COVID-19感染症対策で言えば、ただ「政府憎し」というニュアンスで行なわれた検査体制拡大の要求が、その主張を行なう人々の社会的な信用を低下させ、結果として検査体制拡充の実現に向けて、足を引っ張っているとすら感じている(これは、原発事故後に極端な形で放射線被ばくによる健康被害を強調した反原発運動の活動家たちにも、言えることだ)。
たとえば、検査が現在よりも容易に行なわれるべきだとしても、自分たちが勝手に振る舞うためのお墨付きを得るために、病院にきて「陰性であることの証明」を強硬に求めるような個人や企業の振る舞いが制限されるような対策も講じられるべきである。
まず政治的な決断・行為以前の段階で、主体的な決断の責任を担うことに、国民の一人一人がなじんでいくことが必要である。
その中には当然、苦しく、痛みを伴う決断も含まれる。
そこで、誰か悪者をつくって安心するのではなく、自分もその状況を改善していくための当事者の一人だと考えることだ。そしてこの場合に、社会的な立場が上の人こそ、より多くの責任を担うべきなのは、当然のことだ。
そのような近代的な個人主義を軽蔑する日本的ナルシシズムを脱却し、自我を確立すること(本質的な内容が一致していれば、表現はそれぞれの人が納得できるものを選ぶのがよいだろう)が、日本が長期停滞という苦境から抜け出し、かつ目の前の問題への対応力を向上させるためにも、求められている。