日航機墜落現場を写した私の忘れられない記憶
35年前の御巣鷹山を撮影したカメラマンが残す
2020/08/08 東洋経済オンライン
小平 尚典 : 写真家、メディアプロデューサー
1985年8月12日、日本航空JAL123便が御巣鷹山に墜落してからまもなく35年、またあの暑い夏がやってきた。
ご遺族の方々にとっては、また悲しみの夏である。
昭和という時代の出来事の中では戦後の大きなニュースになったことは言うまでもない。
一方、この時間軸の歳月が、この事故を私たちの記憶の中から少しずつ忘れさせているとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。
その時間で癒やされていった方々もいるのだろうが、最愛の方を失った悲しみは今も癒えないと察する。
いまだ、墜落の原因は諸説あり、多くの書籍も刊行されている。
そんな中、当時の現場を取材した身として私の記憶と記録としての当時の写真を残しておきたい。
35年前、私は新潮社『FOCUS』誌の契約カメラマンとして、生存者のいる事故現場にいち早く到着した。
当時31歳だった。
東京から車で南相木村へ
あの日、初めての合併号で夏休みであったが、私は東京留守番チームで都内にいた。
北海道にいるスタッフからの電話により、「日航機に異常の事態が生じたかもしれない」という第1報があり、慌ててカーラジオでNHKニュースを聞いたのは夜7時15分頃であっただろうか。
どうも長野県と群馬県との境にて航空管制官との通信が途絶えたような情報がアナウンスされている。
その直後、同僚だった『FOCUS』誌のT記者は、長野県の別荘にいた知人から「少し前に凄い音で飛行機が飛んでいった」という電話を受けた。
T記者は前日まで、そこで久しぶりの休暇を楽しんでいたのであった。
私もアウトドア雑誌の取材で八ヶ岳方面や南相木村のあたりの地理には詳しかったので、T記者と2人で落ち合ってともかく現場(その時点ではまだ墜落現場が確定できなかった)近くまで行くことになり、午後8時半頃に東京を出発し、車で南相木村に向かった。
携帯電話がない時代、数日前に自動車電話を搭載したばかりで、高速道での情報交換で非常に助かった。
3チームで現場に向かうことにし、私たちが南相木から、あとは上野村と三国峠からだった。
ラジオからは日航123便の乗客名簿を読み上げるアナウンサーの淡々とした声が流れてきた。
南相木村に着いたのは深夜の11時半だった。
すでに地元の消防団や警察が集まっていたが、いわば右往左往しているという状態であった。
小学校の運動場に車を誘導されて、急ごしらえの白いテントの対策本部が慌ただしく設置されていた。
夜が明ける頃、20名余りの自衛隊員が現場の捜索に行くと言う、私たちはともかく彼らを追いかけていくことにした。
山に登るのだから、軽装で靴はトレッキングシューズにした。
装備はノースフェイスのバックパックに軍手やパンを詰め込んだ。
カメラはモータードライブを外した機械式一眼レフのニコンF2とFM2を、レンズは現場に近寄れるか、またはまったく近寄れないかのどちらかだと考えて、20ミリと300ミリと1.4倍のテレコンバーター。
それから、機動性を考えて、28ミリのレンジファインダーのライカCLEを首にぶら下げた。
フィルムはトライXを7本ばかりケースごと投げ入れて合計10本という計算だ。
デジタルカメラ時代では考えられないことで、今を思えば頑張っても360カットしか撮影できない計算だ。
飛行機の翼を望遠レンズで確認
私たちの足で自衛隊を追いかけるのは無理であった。
とてもついてはいけず、一緒に歩き出したテレビ局のクルーは機材の重さもあり遅れ出した、ひと山越えて峰の頂上に出た、眼下にJALの文字が見える飛行機の翼が望遠レンズで確認できた。
そこにどれくらいいたかは定かではないが、現場を目視できたことは非常に助かった。
そのまま無謀にも崖を降りていった。
道もない深い森林に入って急に不安になったが相棒の記者と、とにかく現場に行くという使命感だけは強くあった。
しかし、すぐに方向感覚がおかしくなり、どこをどう進めばよいのかわからなくなって途方に暮れたが、もう後戻りはできない。
なんとか上空の自衛隊の大型ヘリコプターが飛んでいる音の方角に向かって、たまたま出た沢を伝っていくことにした。
何度も立ち止まり方向を確認したり、喉の渇きを潤すのにフィルムのケースで沢の水をすくって飲んだりもして、黙々と清水が流れている小さな沢を歩き続けた。
無我夢中という表現がぴったりだった。
どのくらいの時間が経過しただろうか。
徐々に断熱材のようなものがふわふわと舞ってきて、飛行機の小さな残骸が落ちているのがわかった。
不思議だがトランプのスペードのエースが落ちていた。
飛行機が墜落した場所が近いことを悟って、足早に向かった。
10時過ぎだったであろうか、目の前がパッと開け、木漏れ陽のようにキラキラ光るものが見えた。
近づくと、木の枝がからまりあって塊のようになっているのが目に飛び込んできた。
飛行機らしき翼の残骸やブルーのシートも目に留まった。
人の声がした。
私たちは「プレスの者です」と、手を振りながら、彼らのほうに近づいていった。
数人の地元消防団員の救援隊の人々は、何をどうしたらよいのかわからないまま茫然と山の中腹の丘に座っている。
「よく来たなあ」と言われて私たちも彼らの近くに座って、夢の島のような残骸を見ていた。
信じられないが木々をなぎ倒したため新鮮な樹木の匂いがした。
残骸の中から、白い手が一度だけ振られた。
ピカッと、指輪のリングが光る。
途方に暮れていた捜索隊は一目散に駆けだした。
「何か動いたぞ、生存者がいるぞ」の声が谷間に響く。
手を振りリングが光ったのはパーサーの落合由美さんだった。
よくも負傷しながら残骸の中から最後の力を振り絞って手を振ったものだ。
事前に放射性アイソトープを積んできたので、機体には近づくなみたいな注意があったが皆、忘れていた。
とにかく、生存者がいることがわかってからの救援隊の行動は素早かった。
いつの間にか長野県警や自衛隊が集まり、吉崎博子さん、美紀子さん母娘、落合由美さん、川上慶子さんと4人を次々救出していった。
樹木がクッションの代わりになったか
そこは「すげの沢」という場所で、飛行機は機首から山頂にぶつかり、胴体後部だけが山の裾野の沢に後ろ向きで雪崩れ込んだ形であった。
樹木がクッションの代わりになって最後部あたりに座っていた4名が生き残ったと推測される。
自衛隊のチームがジュラルミンのドアや近くの木々を利用して次々にタンカをつくっていく。
ヘリコプターが近づくと埃が舞い一瞬身動きができない。
少し雨も降ってきた。
残念ながら「5人目がいるぞ」の声は聞けなかった。
撮影したモノクロ写真51カットを選んで、1991年に墜落事故写真集『4/524』を新潮社から出版した。
編集とも相談して、単独では世界最大の事故であり524人の乗客のうち4人が奇跡的に生存したことを表す数字のタイトルにした。
後に再編集しKindle版も英語表記を入れて出版した。
それからが遺体の収容など、皆黙々と作業が始まる。3時間の滞在で午後1時過ぎには、ここでは待機できないので報道陣は下山するように促され、皆で並んで上野村を目指した。
またこれが大変で、ほぼ夕暮れ時にフラフラになり村道に出て、村役場の消防自動車にぶら下がって役場に戻ってきた。
T記者は10円玉をたくさん持って、公衆電話に並んで報告していた。上野村からタクシーを頼み、南相木村に戻り、早朝に東京に帰還した。人生で一番長い1日だったような気がする。
非情な夏の出来事であり、報道写真家としてあの時感じた「生」への痛切な願いと祈りをいまだに毎年のこの時期に思い出す。
墜落地点/東経138度41分49秒、北緯35度59分54秒。
墜落時刻/1985年8月12日、18時56分27秒92。乗員・乗客524人、生存者4人。