2020年11月20日

すぐ空気に支配される日本人の「いいかげんさ」こそ国の底力である

すぐ空気に支配される日本人の「いいかげんさ」こそ国の底力である
『「空気」の研究』(山本七平)で読み解く
2020.11.19 ダイヤモンドオンライン
秋山進
プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役

 「空気を読む」ということが、大人であれ子どもであれ、暗黙のうちに「たしなみ」のように強要される世の中になって久しい。
対面のコミュニケーションに限ったことではない。
SNSが発達し、新型コロナウイルスによって仕事でも、プライベートでも、対面でのコミュニケーションが減る今日この頃であっても、「空気を読む」ことはますます重要な能力になってきている。
この意味での「空気」という言葉が一般化するきっかけとなったのは、おそらく、1977年出版の山本七平著の大ベストセラー『「空気」の研究』(現在は文春文庫)であろう。
今回はこの50年近く前の本を読みつつ、「空気」について考えてみたい。

誰もがよくないと思いつつ 誤った意思決定をしてしまう 空気の研究
『「空気」の研究』山本七平著(文春文庫)
 会議が空気によって支配され、明らかに間違った意思決定をしてしまった経験が、おそらく誰にでもあるにちがいない。
会議でなくとも、何人か集まってものごとを決める場でもいい。
そのとき、あなたはどんなふうにその会議に参加していたか?
 反論をしようと思ったのだが、とても言いだせないような空気が充満しており、何も言えなかった。
または、勇気を出して重要なことを提起したのに、何事もないかのように全員から無視された。
さらには、明らかに間違っていると(おそらく)全員が思っているのに、私を含む全員が賛成したということになって終了した………だいたい、こんなところではないだろうか。

 長年、リスクマネジメントの観点から企業の不祥事を扱ってきた私はこのような決定にはなじみが深い。
空気に支配された会議は、全員の総意をもって、禍根を残す意思決定を行う。
『「空気」の研究』著者の山本七平氏は、そんな例として戦艦大和の出撃の意思決定をあげる。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和50年8月号の『戦艦大和』(吉田満監修構成)でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和)の特攻出撃は当然と思う』(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言が出てくる。
この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとに比べて、それを無謀とするに断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。
だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。」(以下、「」内の引用文はすべて『「空気」の研究』(文春文庫))

 山本氏は、組織には、論理的意思決定と空気的意思決定の二つがあり、明らかに後者のがほうが強いと言うのである。
「それ(空気的意思決定:筆者注)は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである。」

危機的状況にある組織で 「空気」はより抑圧的になる
 うんうんとうなずく人と、昔はともかく今の会社にはないですよ、という人に分かれるかもしれない。
組織が成長過程にあり、業績も順調なときには、幸いなことに、このような非合理な意思決定はあまり行われない。
 しかし、会社が傾き、事業戦略の失敗が重なり、そこにさまざまな個人のメンツや部門間の利害関係などもからんでくると、組織には、隠したいことやごまかしたいことが増えてきて、会議にはえもいわれぬ“空気”が漂いはじめ、山本氏いわく「論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)」の状況が発生する。

 あるいは、現代のような激動の時代、そのうえ新型コロナでそれまでの常識が覆されてしまうような異常な事態、そして、事業が壊滅的な影響を受けてしまうような危機的な状況においては、組織は「空気」の脅威にさらされやすい。
 こうした「空気」による意思決定については、現在では、行動心理学や経済学などの分野の研究によって、かなり科学的に解明されてきている。

利用可能性(ヒューリスティックス)や、アンカリング、現状維持バイアスや、確証バイアス、またはゲーム理論などによって、当人の過誤またはプレーヤーの相互関係により、利益の少ない選択肢を選んでしまうことがあることは知られている。  

明らかに成算のない太平洋戦争の開戦についても、プロスペクト理論によって、確実な衰退(ジリ貧)と、ゼロではないがきわめて低い成功の可能性(ただし期待値は低い)を比較し、後者を選んだ可能性が高いことなどが解明されてきている。
また、比較文化論の観点からも、本書をはじめとしたベストセラーになるような「日本人論」については、慎重に扱うべきであるという見方が大勢だろう。

 ともかく、日本型の集合的な意思決定による責任の分散があり、一人で全体に抗しえない状況が生まれると、集団での浅はかな意思決定が行われるのである。
したがって、参加者の誰にも自分が決めたという自覚がない。
皆で話している間に、多くの者が“それは良くない”と思いながら意思決定するのである。
自分としては、状況がそうだったから仕方がなく賛成した(反対しなかった)だけに過ぎない。

 山本氏はこれを「状況倫理」と呼んでいる。
この状況倫理を安易に許容する日本人、および組織に対して山本氏はかなり批判的である。
状況に依存しない、相対的にもう少し確からしい善悪の基準があるはずだろうと言うのである。
しかし、多くの日本人は、閉鎖された組織空間の中で生まれた状況倫理にふりまわされ、そちらを優先してしまう。

王様は裸だと言える人 KY発言が空気を破る
「戦前の日本の軍部と右翼が、絶対に許すべからざる存在と考えたのはむしろ自由主義者であって、かならずしも社会主義者ではない。
あった事実をあったといい、見たことを見たといい、それが真実だと信じている。
きわめて単純な人間のことである。」

 状況を忖度せず、正しいと思うことを正しいといい、見たままのことを見たままにいう人間を警戒した理由は、このような単純な人間たちの一言、たとえば「先立つものがないなぁ(金がない)」といった素朴な雑感が、集団を我に返らせ、現実を直視し、作られた空気を変えるキッカケを生む可能性があるからである。
これを「水を差す」行為として、「空気」への対抗策として山本氏は評価する。
ちょっと前までよく使われた言い方を借りれば「KY」な発言がこれに当たるだろう。

 現在の組織は、新しい技術を持った人、いろんな経歴を持つ人が集まっている。
たとえば社外取締役に外国人や女性を数合わせのために入れることには意味がないが、本来、社外取締役というのは、人種や性別を問わず、社内の「空気」の抑圧のために、見過ごされている明らかな過ちを、組織(ひいては、その空気)の影響を受けない立場から空気を読まず(読めず)に指摘するのが役割であろう。
いずれにせよ、空気に支配されないためには、閉鎖性が崩れることは大変良いことである。

 また、心理学などの発展によって、組織が間違った意思決定を行うことを防ぐ手立ても生まれている。
たとえば、より正しい意思決定をするために、あえて賛成、反対の2チームをつくって報告書を書かせる「レッドチーム」(ある対策が有効かどうか試すために、その対策を立てた側と敵対する考えを持つチーム)を利用する方法などである。
組織のオープン化、意思決定手法の改善などで、新常態においては、空気に支配された間違った意思決定が減ると考えたい。

現代社会全般に 「空気」の抑圧は蔓延
 次に、組織を離れ、社会全体の空気についても考えてみたいと思う。  
 昨今、人気俳優やメダリストらの不倫といった問題が社会的関心事となり、自分とは直接の関係をもたいないそれらの人への異常なまでの不寛容さが社会を覆っている。
少し前までヒーロー、ヒロイン的な「善」の存在であったのが、SNSでの炎上などをともない、いきなり「悪」の象徴として社会的に抹殺されるような状況になってしまうのである。

 さて、『「空気」の研究』では、「臨在感」や「臨在感的な把握」なるものが主題の一つとなっている。
「臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、(中略)感情移入を絶対化して、これを感情移入だと考えない状態にならねばならない。」

 臨在感というのは山本氏オリジナルの用語なので、その定義は割愛するが、山本氏が言う臨在感的な把握は、たとえば一人の人間のなかに、「善の部分と悪の部分が対立しながらどちらもある」と認識するのではなく、自分のなかにある善悪の規準で、他人を短絡的に善玉・悪玉に分けてしまい、ある人間には「自分のなかにある善の概念」を乗り移らせて「善」と把握し、別の人間には「自分のなかにある悪の概念」をすべて投入して「悪」として把握するということだと言う。
 ある事件や現象があったとして、なにかのきっかけでそれに多くの人が感情移入し、「そこにマスコミがとびつき、大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる」。

勝手に感情移入してヒーローに仕立て上げたかと思うと、同一人物のなかに悪を発見して、自己の悪をそこに投影させ、一転、全面的な悪の象徴として、てのひらを返したように、たたき落とすのである。
 なぜ、そんなことになるのか。山本氏は一神教の話をする。

多神教ゆえに 「空気」が絶対になる日本
「一神教の世界では「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。」
 キリスト教やイスラム教のような一神教世界には、そもそも絶対的なものなど神以外にはない。
民主主義であろうと、憲法であろうと、何であろうと、である。

一方、日本のような森羅万象に神を見いだす多神教にはそのような基軸になるものがないから、何ものかが選ばれて、それがその場や社会を支配する「空気」となって絶対性を持つことがある。
しかもそれは次々と移ろう。
「民主(筆者注:民主主義のこと)といえばこれは絶対で、しかも日本のそれは世界最高の別格であらねばならなくなる。
憲法も同じであり、あらゆる法は常に欠陥を持つから、その運営において絶えず改正を必要する存在であってはならず、戦前の天皇制が、他国の立憲君主制とは全く違う金甌無欠の体制であったという主張と同様、完全無欠であらねばならないのである。」
 これは、戦後、軍国主義から一転、民主主義や憲法が絶対視されたことを指している。

山本氏は、このようにあらゆるものを絶対的なものとして見ることを警戒する。
一方で、山本氏は、日本の絶対化の“いいかげんさ”も指摘する。
「この世界には原則的にいえば相対化はない。
ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、ある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる――ただしうまくやれば――」

「空気」と「絶対化」が すぐに移ろうことが日本の底力
 しかし、このようなくだりを読んでいて思い浮かんだのは、空気によって支配され、簡単になにものかが絶対化されつつも、すぐに絶対化の対象が移ろってしまう、このいいかげんさこそが、日本の底力なのかもしれないということである。
 興味関心が揺れ動く。
一瞬大きな力をもつが、すぐに忘れる。
たとえば郵政民営化。
あんなに盛り上がったが、いったい何だったのだろう。
なんでもかんでもすぐに祭り上げ、手を出してみたかと思えば、次の瞬間興味の対象は移ろい、そのことは忘れて、次の関心事にまい進する。
検証もほとんどしない。
悪の権化もしばらくたつと許される(というか忘れられる。あるいは新しいキャラクターに変身したりする)。

 しかしながら、この空気の先導によって何かしらが前に進む。
今回の新型コロナの新常態において、一気にリモートワークが進み、ジョブ型人事や、法規制でできなかったオンライン化がある意味融通無碍に進む。
深い思想など持たないし、全体や過去との整合性など何も考えない。
そして、これらの変化のうち、うまく状況にフィットしたものは一般化して定着するが、合わなければ中途半端なままにとどまり、いつの間にか立ち消えになる。

 この日本型の“いいかげんさ”を、私自身はずっと“絶対的に悪い”ことだと思ってきた。
しかし、案外これこそが、日本社会を進化させ、結果として驚くべき柔軟さで変化に対応する日本社会の原動力なのかもしれない。
生物の進化と同様、国家の進化も計画によるものよりも、行き当たりばったりの突然変異とその環境に適応した適者生存によって達成されているかもしれないのだ。
新常態下における山本七平『「空気」の研究』の再読は、まったく予想もしなかったような発見を筆者にもたらしたのである。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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