論点.「まず自助」に違和感
毎日新聞2020年11月20日 東京朝刊
菅義偉首相は臨時国会の所信表明演説で、「自助・共助・公助」を目指す社会像とした。
しかし、自助が1番目に提示されたことに、「困ったことがあっても、まずは自分で何とかしろと言われているようだ」と反発の声も上がる。
自己責任だけでは解決できない課題が増える中、自助・共助・公助の望ましいバランスを考える。
「皆で助ける」なぜ言えぬ
奥田知志・認定NPO法人「抱樸(ほうぼく)」理事長
菅首相の掲げる「自助」は、「まずは自分で何とかしろ」と聞こえる。
それでダメだったら国が支えるから安心しろ、と。
言わば「ダム決壊論」。
「自助」というダムが決壊したら「共助」のダム、すなわち周囲で支える。
「共助」のダムが決壊したら、最後に「公助」(国)のダムがある、と。しかし困窮者支援の現場から見ると、これは机上の空論だ。
なぜなら「公助」の対象となる時にはすでに「自分」も「周り」もボロボロに傷ついているから。
公助を後回しにした結果、困っている人も地域も崩壊し、二度と立ち上がれなくなってしまう。
公助を出し惜しみするほど自助の成り立たない社会となってしまう。
菅首相の最大の過ちは「助ける」ということに序列と順番を持ち込んだ点だろう。
「まず自助」であってはいけない。
「自助」を成り立たせるためにこそ、同時に「共助」「公助」が必要なのだ。
国や周囲に支えられた人々が、今度はほかの誰かへの「共助」「公助」を支えていく。
自助・共助・公助に順番はない。
三つセットであるべきで、その根底にあるのは「人間は一人では生きていけない」という普遍的な思想だ。
コロナ禍は全世界を「当事者」にした。自分や自分の国だけが助かれば問題解決とはいかない。
しかし社会には「自分や自分の家族だけでも何とか助かりたい」という風潮が広がっている。
「自分だけ」が肥大化する時代に「まず自助」と言ってどうするのか。
私が首相ならこう言うだろう。
「社会の皆で助けるから、絶対に心配しないでください。
思いあまって自死を選ぶようなことはしないでください。
この国、いや世界中が助け合わねば、コロナ禍は乗り切れませんから」と。
32年前からホームレス支援を始めた。
その中で学んだことがある。
それは「自立は孤立ではない」ということ。
家がないこと、経済的な困窮の問題を解決できても、人間は社会的に孤立している限り、「自立」が困難になる。
路上生活を脱し、アパートに入り、就職できた男性の家を訪ねると、彼は部屋にぽつんと座っていた。
その姿が、駅の通路で段ボールを敷いて座っていた姿とかぶって見えた。
「自立」の意味を与えるのは他者の存在。
人間は、あの人が支えてくれたから、あの人を支えたいから、だからこそ、生きていこうと思えるのだ。
菅首相が「まず自助」と言った時、そこに「他者」の姿が見えないと感じた。
「自分で何とかしろ」と国に切り捨てられ、孤立する人々の姿が見える思いだった。
共助や公助を後回しする社会は、人と人との支え合いやつながりをおろそかにする社会へとつながっていく。
国が「まず自助」と言うことで、日本はますます「助けて」と言えない社会になっていく。
菅首相は「たたきあげ」だという。
地盤も看板もカバンもない東北地方の若者が首相に上り詰めるまで、きっと誰より多くの人々に支えてもらってきたのではないか。
「俺は周囲に助けられ、ここまで来た。だからこの国を助け合える国にしたい」となぜ言えないのか。
【聞き手・小国綾子】
共助でしか解けぬ問題も 寺脇研・元「新しい公共」円卓会議委員
菅首相は、まず自助、次に共助、最後に公助の順番で語るが、本当に共助を意識しているだろうか。
一般的な議論は、「公助では財政がもたないから自助でやれ」と「自助よりも公助。大きな政府にしろ」の二者択一で、共助はまるで刺し身のつまである。
私たちが約10年前の民主党政権下で、「新しい公共」という言葉で共助を論じた前提は、「自助は当然」だった。
我が身が可愛くない人はいないからだ。
公助も当然。
セーフティーネットのない社会はあり得ない。
そのうえで、共助でしか解けない問題もある。
代表例が、子どもの問題(貧困や虐待、育児放棄など)だ。
子どもに自助は無理。
親の責任はあるが、金銭や精神面の問題で責任を取れない親もいる。
公助は限界がある。
生活保護ならば、審査のためにプライバシーに踏み込んだり、子どもがアルバイトをしたら打ち切られかねなかったり。
私が企画して2月から上映している映画「子どもたちをよろしく」は、子どもの貧困を扱った。親はギャンブル依存症で、給食費の免除も生活保護も知らないから申請しようがない。
その子どもが苦しむのは、自己責任だろうか。
ケースワーカーなどの充実で、公助につながりやすい環境を広めなければならないのはもちろんだ。
ただ、たとえば今はプライバシーの関係で、学校が家庭訪問をできなくて児童の生活がわからず、児童相談所に通報が来る頃には相当ひどい状況になっていたりする。
NPOやご近所などによる、問題深刻化前の助けも必要なのだ。
たとえば、アパートの隣人がシングルマザーならば、「大変だね、なんかあったら子どもを預けてよ」と言えないだろうか。
子どもをいくら愛していても、孤立して疲れ切って、育児放棄や虐待に走る可能性はある。
自分から声を上げるのは難しい。
周囲の一言だけで、その可能性を減らせるかもしれない。
共助は、こんな身近なところから始まる。
子どもの問題に限らず、もっと「手軽」な共助もある。
コロナ禍で、経営不振になった映画館や飲食店のクラウドファンディングが爆発的にはやった。
給付金の10万円をNPOなどに寄付した人も多い。
民主党政権が今のNPO税制を作って、NPOへの寄付がかなりしやすくなった。
去年から、休眠口座のお金を社会団体が使えるようになった。
この話も、民主党政権下の「『新しい公共』円卓会議」から始まった。
NPOへの参加・支援は、以前と比べものにならないほど容易になっている。
弱者に冷淡な態度が目立つ今の政府に、今さら公助の大幅拡充を求める気にはならないが、自助の強調だけはしないでほしい。
私が子どもの頃、日本の人口構成は子ども1人に大人2人だった。今は子ども1人に大人が7人。なのに子どもが虐待死や餓死をするのは、明らかにおかしい。
生活に余裕のある大人たちが、特に子ども問題で共助の担い手になってくれれば、財政支出を増やさずとも多くの社会問題を解決する糸口がつかめる。
子ども問題の背後には、必ず、親など大人の問題があるのだから。
【聞き手・鈴木英生】
助け合いの後押し強化を 千正康裕・株式会社千正組代表
昨年まで18年半勤めた厚生労働省で、社会保障や労働政策を担当してきた。
「自助・共助・公助」は、戦後一貫して政府が維持してきた日本の社会保障制度の基本的な考え方であり、全く新しいキャッチフレーズではない。
にもかかわらず、「自助を強調するのは弱者に冷たい新自由主義ではないか」という声が上がった。
誰もが「失業」「病気」「高齢で働けなくなる」など人生の中で大きなリスクに直面する時があるが、こうしたリスクを支えるために、雇用保険、医療保険、年金などの制度がある。
これらは支え合いを「社会化」したもので、皆が納める保険料を中心とした「共助」と言われる。
共助でも救えない場合、最後のセーフティーネットとして、税金を活用した生活保護、福祉などの「公助」がある。
日本はこのような重層的なセーフティーネットを、高度経済成長期に築いてきた。
共助も公助も、分厚い中間層が存在し、税金や保険料を支払ってくれなければ実現できないのだから、菅首相が話した「自助・共助・公助」という順番は、私は間違ってはいないと思う。
ただし、忘れてはならないことがある。
「自助」とは「誰の世話にもならずに一人で生きる」ということではない。社会保障制度が整備されてきた時代は、家族、親類、職場、地域などさまざまな人に支えられて、何とか自助努力が成り立ってきたという前提があった。
今や核家族化が進み、未婚・離別・死別による一人暮らしが増え、終身雇用も崩壊して非正規雇用も少なくない。
地域のつながりも希薄になって、一人で頑張るしかなくなり、かつては支え手だった若い世代にも、ひきこもり、ホームレス、ワーキングプア、一人親など困りごとを抱える人が出てきた。
正社員も所得が上がらず、子育てや親の介護などもあって決して楽ではない。
このように「自助」を支えていた社会の機能が壊れる中で、いきなり「自助」と言われると、突き放されたと感じるのではないか。
もちろん、経済の低成長や少子高齢化などを背景に社会保障そのものの持続可能性や世代間の公平性への疑問を感じている人も少なくないだろう。
私は「自助が先か公助が先か」ではなく、「今の時代に合わせた形で自助を支え直す」という視点が必要だと考える。
つまり、自助と共助の間にあった「互助」だ。
地域やコミュニティーの人のつながり、助け合いを後押しする取り組みを強化すべきだ。
NPOなどの民間の活動や市民参加、テクノロジーの活用も重要になる。
たとえば、60歳代の元気な高齢者が75歳以上の後期高齢者の生活支援をする地域が出てきたり、子育て中の女性向けに保育園の迎えを支え合うアプリが開発されたりするなど、新しい取り組みも出てきた。
生活困難者に伴走するNPOも増えているし、政府もこのような活動を支援するようになってきた。
自助は「一人で生きていけ」ということではない。
経済政策や制度の改革に加えて、「互助」にも目を向けてほしい。
【聞き手・永山悦子】
次の次に政府の出番
菅首相は、自民党総裁選に出馬する際の政策として「自助・共助・公助」を掲げ、経済的、社会的に弱い立場の人たちに波紋が広がった。臨時国会の所信表明演説でも、同じように「目指す社会像は、『自助・共助・公助』そして『絆』」と述べ、「自分でできることは、まず自分でやってみる。そして、家族、地域で互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りする。そうした国民から信頼される政府を目指します」と訴えた。