2021年08月15日

最強戦艦「大和」に特攻させた「組織の論理」の怖さ

最強戦艦「大和」に特攻させた「組織の論理」の怖さ
3000人超が犠牲、現代にも通じる愚策の背景
2021/08/14 東洋経済オンライン
戸高 一成 : 日本海軍史研究家

 太平洋戦争の末期、劣勢となった日本軍は戦局を挽回するために、アメリカの戦艦への体当たり攻撃である「特攻」に踏み切りました。
そして海軍は世界最大・最強とうたわれた戦艦「大和」も特攻に投入しました。
その決断の背景を探ると、危機下における組織の意思決定の問題点が浮かび上がってきます。
日本海軍史研究者の戸高一成氏が解説します。
※本稿は戸高氏の新著「日本海軍戦史 海軍からみた日露、日清、太平洋戦争」から一部抜粋・再構成したものです。

多くの水上艦艇を失っていた日本海軍
昭和20(1945)年4月、レイテ(フィリピン)をめぐる「捷一号(しょういちごう)作戦」に敗れ、多くの水上艦艇を失った日本海軍は、洋上におけるアメリカ海軍との決戦能力を失い、戦艦「大和」以下の残存艦艇は瀬戸内海に空しく待機していた。
今や作戦行動を続けているのは潜水艦隊と護衛部隊、そして航空特攻のみとなってしまった。

4月1日、アメリカ軍はついに沖縄本島に上陸を開始、ここに本土決戦の火蓋が切られたのである。
この上陸に、アメリカ軍は実に航空母艦22、戦艦20を含む大艦隊を投入、1000機を超える航空機により徹底した攻撃が加えられた。
これに対し、日本軍は効果的な抵抗ができず、アメリカ軍は攻撃初日に早くも飛行場を奪取、4月6日には作戦に使用しはじめた。
連合艦隊は、沖縄のアメリカ軍に対して「菊水」作戦を発動、全力特攻作戦を準備した。
この「菊水」作戦について及川古志郎軍令部総長が天皇に奏上したところ、「航空部隊だけの攻撃なのか」とのお言葉があった。
これに関しては、「船のほうはどうしているか」とのお言葉であったとの説もある。
いずれにせよ天皇としては単に作戦の情況を尋ねたもののようであったが、これを及川軍令部総長は、軍艦も特攻に出さねばならない、と受け取り、「海軍の全兵力を使用いたします」と奉答した。

この後、この水上特攻計画がどのような経過をたどって決定に至ったかは、なぜかあまり明瞭ではない。
第一に、このような重要な作戦にもかかわらず、連合艦隊の草鹿龍之介参謀長は、第5航空艦隊との作戦打ち合わせのために、鹿屋海軍航空基地(鹿児島)に出張中で、この経過をまったく知らなかった。
草鹿がこれを知ったのは作戦決定後であり、電話で神重徳参謀から知らされ、「参謀長の意見はどうですか」と聞かれた。
草鹿はさすがに腹を立て、「決まってから、参謀長の意見はどうですか、もないもんだ」と憤慨した。

大筋としては、及川総長から直接、豊田副武連合艦隊司令長官に話が行き、参謀長不在のまま、早くから水上艦艇による殴り込み作戦を主張していた神重徳参謀の案を採用したものだったらしい。
豊田長官自身は「うまく行ったら奇跡だ」と判断していたにもかかわらず、この作戦の実施を認め、軍令部に戻した。
小沢治三郎軍令部次長は、「長官がそうしたいのなら良かろう」と、これを了承した。
もちろん及川軍令部総長に異存はない。
こうして天皇の何気ない質問は数日のうちに、戦艦「大和」以下の日本海軍最後の水上艦隊の特攻出撃という命令となったのである。

巨大なきのこ雲を噴き上げて沈没した大和
出撃する艦隊は、第2艦隊旗艦「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦八隻(「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」)の計10隻であった。
艦隊は4月6日に出撃し、沖縄に向かって進撃したが、ほどなくその行動は敵潜水艦にキャッチされ、翌日の正午過ぎごろから延べ1000機にのぼる敵艦載機の航空攻撃が艦隊に集中した。
ついに14時23分、多数の魚雷と爆弾が命中した「大和」は巨大なきのこ雲を噴き上げて爆発沈没した。九州坊ノ岬沖、北緯30度43分、東経128度04分の地点だった。
特攻第2艦隊10隻のうち、無傷といえるのは「初霜」1隻のみであった。
ほかの9隻の内、「大和」「矢矧」「霞」「浜風」「朝霜」の5隻が沈み、「雪風」「冬月」「涼月」「磯風」が損傷していた。
「磯風」は損傷がひどく、「雪風」が砲撃で処分した。 そして「大和」乗員3332名の内、戦死者3056名、救助されたのはわずか276名にすぎなかった。
この数字は、海軍航空特攻全戦死者の数を上回るものであった。
ここにおいて、輝ける帝国海軍の歴史は「大和」の沈没の巨大なきのこ雲とともに消え去ったのである。

この日本海軍最後の艦隊特攻作戦は、いくつかの問題を残した。
第1に挙げられるのは、特攻作戦と称し、特攻出撃を命じながら、航空特攻戦死者には、例外なく与えられた2階級特進が無視されたことである。
海軍当局は特攻戦死者に明瞭に格差をつけていたのではないか。
これは、進撃途中に伊藤整一第二艦隊司令長官が、作戦の中止を命じたためであるとも言われているが、少なくとも中止命令以前の戦死者は、特攻戦死者であることに疑いはない。
航空特攻でも、出撃して未帰還の場合は特攻戦死とされるが、敵を見ず、帰投するとの連絡後に、未帰還となった場合は、特攻戦死とならない場合がある。

さらに、出撃にあたって連合艦隊司令部から与えられた命令は次のようなものであった。
「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。
皇国の興廃はまさにこの一挙にあり、ここに特に海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後昆に伝えんとするに外ならず。
各隊はその特攻隊たると否とを問わず、いよいよ殊死奮戦、敵艦隊を随所に殲滅し、もって皇国無窮の礎を確立すべし」
目標は「日本海軍の栄光」の伝統発揚だった!

この命令を起案したのが誰なのかはっきりしないが、この命令文が示すものは、この特攻艦隊の出撃が、「海軍の伝統を発揚」するために命ぜられたものである、ということであった。
付帯的に付けられた「皇国無窮の礎を確立」することとともに、そこにはなんら遂行中の戦争に対する戦術的展望もなければ、すべてを失った後に対する考慮も読み取ることはできない。
この作戦の目標は戦果ではなく、「日本海軍の栄光」の伝統発揚のためだったのである。
これは、かつて「栄光なきレイテ突入」を断念した栗田健男第二艦隊司令長官(当時)の判断と表裏一体のものであった。
日本海軍にとっては、海軍あって国家なしと言われても仕方のない文章である。

海軍は、ただ「輝ける伝統」という幻を守るために多くの艦艇と人命をアメリカ軍の攻撃の前に差し出したのであろうか。
当時の海上護衛参謀大井篤氏(大佐)はこの命令内容を電話で聞いて激怒し、「この期に及んで帝国海軍の栄光が何だ、それだけの燃料があれば、大陸から食糧をどれだけ運べると思っているのか」と叫んだ、と筆者に語ってくれたことがある。
大井氏はさすがに、何が本当に大切であるかをつねに考えていた軍人であった。
リアリズムに徹しており、現代のわれわれが納得できるセンスの持ち主と言えるが、当時の日本海軍において彼のようなセンスの持ち主は多くはなかったのであろうか。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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