「小室圭さんバッシング」が世間で止まらない3つの理由
2022.3.28 Diamondオンライン
佐藤直樹:九州工業大学名誉教授・評論家
結婚後も止まらぬ報道 小室夫妻は「一般人」のはず
小室圭さんへのバッシングが止まらない。
最近でもたとえば「女性自身」(2022年3月22日)は、2月に司法試験会場に現れた小室さんの様子を見て、「小室さんの髪はボサボサで、またおなか回りも膨らんでいました」
「とても新婚の夫には見えない。小室夫妻はうまくいっていないのではないか」という、NY在住のジャーナリストのコメントを載せている。
昨年10月に結婚し、現在ニューヨークに住む小室夫妻は、正真正銘「一般人」になったはずだ。
こうしたメディアの報道は、はっきりいって大きなお世話だと思う。
なぜ、執拗なメディアのバッシングが続くのか。
この問題の根本にあるのは、日本における「個人の不在」だ。
自分は自分、他人は他人」と 思えない“共感過剰シンドローム”
そもそも日本人は、欧米人に比べて他者に対する共感能力が高いといわれる。
たとえば、会社で同僚がまだ仕事をしていると、自分が終業時間になっても帰りづらくなる。
時間になれば、さっさと帰宅する欧米の職場とはまったく違う。
もちろん、共感能力が高いのは日本人のよい面でもある。
だが、自分とは直接、何の関わりもない、テレビに画面に登場する有名人についても、なぜか「我が事」のように考え、過剰な共感能力を発揮することがある。
当初好感を持って見ていた人物に対しても、犯罪や不祥事などの何らかのきっかけがあると、そのキモチが「裏切られた」となって反転し、ひどい非難やバッシングになることがよくある。
これを私は「共感過剰シンドローム」と呼んでいる。
要するに、日本人は「自分は自分。他人は他人」と思えないのだ。
実は「個人」は、もともと日本にあったものでなく、ヨーロッパ産のコトバだ。
欧州では、農村が解体して都市に人口が流出する都市化と、自分の罪を神に告白するキリスト教の「告解」の普及によって、12世紀前後に“individual”たる個人が生まれた。
この個人こそ、「自分は自分。他人は他人」と考える人間のことだった。
日本には明治期にこのindividualが欧州から輸入され、江戸時代には存在しなかったので、1884年頃に「個人」と新たに造語された。
個人は現在、普通に使われるコトバになっているが、「あいつは個人主義的で勝手なヤツだ」という言い方にあるように、「世間」では必ずしもよい意味では使われない。
つまり、今でも英語のindividualと日本語の個人は似て非なるものである。
端的に言って、欧米とは異なり日本では個人を主張すると嫌われる。
「自分は自分。他人は他人」と思えないことが、「共感過剰シンドローム」を生み出す。
これが、小室さんに対する奇妙なバッシングが、なかなかやまない理由になっているのだ。
「個人の不在」が 「家が責任を取れ」に
二つ目の理由は、日本では「個人が不在」であるために、家族の中も個人と個人との関係にならず、家族構成員の不始末があると「家が責任を取れ」になるからだ。
もともと「世間」によるバッシングが始まったのは、2017年9月の婚約内定記者会見から3カ月ほど後だ。
元婚約者に借金を返済していないという、母親の「金銭トラブル」が週刊誌で報道された。
この報道をきっかけに、それまでの「世間」のお祝いムードが、「裏切られた」という感情に反転し、一気に小室さんバッシングに向かったのだ。
私は若干疑問を持っているが、元婚約者の主張にどれだけ法的な正当性があるのかは、ここでは置く。
いずれにしても、小室さんがバッシングされたのは、「母親の不祥事は息子が責任を取るべきだ」と、「世間」が考えるからだ。
ところが、個人から構成される欧米の家族を見ると、日本の家族とはまったく異なっていることが分かる。
欧米では、仮に家族構成員が重大な犯罪を犯したような場合でも、「家が責任を取れ」などとは言われない。
社会が家族を強く非難したり、バッシングしたりすることはまずない。
家族がバラバラの個人からできているために、「親は親。子どもは子ども」「夫は夫。妻は妻」と、親子や夫婦の間が、独立した人格の関係と考えられるからだ。
ここには、欧州で12世紀に成立した個人の伝統が連綿と受け継がれている。
しかし日本では、家族構成員の犯罪や不祥事には、「家が責任を取れ」と「世間」から非難されるのが普通だ。
家族は一体であって、一人一人が独立の人格を持つ個人だとは考えないからだ。
それはあたかも、犯罪者の家族もまた責任を負わされた、江戸時代の連座責任や縁座責任の亡霊が、いまだに生き続けているかのようなのだ。
根強い「家意識」の存在 「家柄がつり合わない」は差別
バッシングの三つ目の理由は、個人を認めない「家意識」の存在だ。
これはきわめて厄介な問題だ。
確かに戦後、明治民法にあった「家制度」は消滅し、両性の本質的平等を掲げる現行民法が成立した。
また憲法24条には、婚姻は「両性の合意のみに基いて成立」すると書いてある。
これは、戸主が子どもの結婚の同意権を持ち、結婚の自由がなかった戦前の「家制度」を否定し、人生の伴侶を決める結婚は個人と個人のつながりであり、結婚の自由が尊重されなければならないことを宣言したものだ。
ところが、法律上の「家制度」は消滅したのだが、結婚は個人と個人のつながりではなく、「家」と「家」とのつながりであるとする「家意識」に基づく結婚観が、今も厳然と存在する。
これが、部落差別などの深刻な結婚差別につながっているのだ。
ちなみに、2017年に実施された愛知県の県民意識調査によれば、結婚相手の家柄を問題にすることについて、「当然」とした答えが27.2%を占めた。
これと「おかしいと思うが反対しても仕方ない」を合わせると、実に64.4%になるそうだ。
これにたいして、「間違っている」と答えたのは31.2%にすぎないという。
結婚が個人と個人のつながりでないため、「借金トラブル」などの「母の品格」を問題にして、小室さんが秋篠宮家の婚約者としてふさわしくない、との主張をしたメディアも多かった。
これは端的にいって、小室家と秋篠宮家では「家柄がつり合わない」といっているのと同じで、憲法14条(法の下の平等)で禁じている「門地」による差別にほかならない。
日本のTwitterユーザーの匿名率は75%以上 他国に比べ突出、誹謗中傷の温床に
昨年の結婚時には、メディアやネットの誹謗(ひぼう)中傷による眞子さんの「複雑性PTSD」が公表された。
天皇に対する直接のバッシングは見当たらないが、皇室に対するバッシングは実は以前からあった。
1993年には皇后美智子さま(当時)が倒れて「失語症」となり、2004年には皇太子妃雅子さま(当時)の「適応障害」が公表されている。
総じて言えば、これらのバッシングは、皇室の一員が、個人であろうとすることに対する「世間」の反発だと考えられる。 天皇家の一員という身分に反するような個人の振る舞いは、「わがまま」だといった批判がされたのだ。
かつての皇室バッシングと、今回の小室さんバッシングが決定的に異なっていることは、誰でも自由に発信ができ、それがリアルタイムで爆発的に広がるインターネットが普及していることだ。
日本はSNSのTwitterユーザーの匿名率が75%以上で、他国の30〜40%と比較して突出して高く、これがネットの誹謗中傷をまん延させる大きな要因になっている。
私は、公益性のある内部告発などは別としても、実名でネットに発信できないような内容は、匿名でも発信すべきではないと考える必要があると思う。
それが、日本に「自分は自分。他人は他人」という個人を生み出す一歩になると考えるからだ。
(九州工業大名誉教授・評論家 佐藤直樹)