2022年05月03日

レジ袋の有料化は義務ではなかった。政府の言いなりになる危険さ/倉山満

―[言論ストロングスタイル]―
レジ袋の有料化は義務ではなかった。政府の言いなりになる危険さ/倉山満
2022年05月02日 SPA!

◆レジ袋の有料化は、“強く推奨”されただけ。義務ではない
 多くの人々が「騙された」との気持ちになるのではなかろうか。
「レジ袋有料化は義務ではなかった」と聞かされれば。
 4月20日の『日刊SPA!』で「レジ袋有料化は義務ではない。単なる『強い推奨』にすぎなかった、政府が答弁」という記事を配信したら、反響が大きい。

 ’20年7月1日から「レジ袋有料義務化」と大々的に宣伝された。
多くの人が「環境問題だから仕方がない」と協力した。
 レジ袋有料義務化は、過去に何度も法制化しようとしたが、「憲法違反の疑義がある」との意見が出され、断念してきた。憲法22条「営業の自由」に抵触するからだ。

 ところが、法律どころか内閣の出す政令ですらなく、一つの省が出せる省令で「レジ袋有料義務化」がなされた。
なぜ法律で不可能なことが省令で可能なのか。

◆なぜ法律で不可能だった「レジ袋有料義務化」が省令で可能なのか
 その理由を調べようと、私が理事長兼所長を務める救国シンクタンクで、委託研究を立ち上げて調査した。
担当は早稲田大学招聘研究員の渡瀬裕哉理事、委託者はラジオ番組でこの問題を毎週のように取り上げている郵便学者の内藤陽介先生。
調査には浜田聡参議院議員の協力で、官民問わず幅広くヒアリングを行えた。

 官僚が国民に命令を出すには法律に根拠が必要である。
その根拠法が「容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律(いわゆる容器包装リサイクル法)で、ここに罰則規定が定められている。
 大臣はプラスチックを減らすための基準を定めることができる。
プラスチックを減らす努力が著しく足りない業者に対しては、「指導、助言、勧告、名前の公表、命令、罰金」という段階を踏んだ手続きを行うことができる。
 最終的に罰金がとんでくるのだが、「著しい」か否かは、役所の匙加減一つだ。
 この法律を施行する為の省令で、環境省は経産省を巻き込んで「レジ袋を無料で配布してはならない」との省令を定めた。ただし例外があり、環境に悪くないレジ袋は無料配布をしても良いとした。

◆「有料化が義務化されたというふうに聞こえてしまったのかもしれません」
 この過程で、
@環境保護という公共の福祉が目的であること、
A「指導〜罰金」の慎重な手続きを踏んでいること、
B例外規定があることの三つが憲法違反ではない理由とされた。

つまり、すべてのレジ袋の有料化は義務ではないのだ。
 この点を、4月8日衆議院経済産業委員会で、日本維新の会の漆間譲司衆議院議員が糺した。
要するに、レジ袋有料化は義務なのか義務ではないのか。
 これに対する経産省局長の答弁は「単純に言えば実質的には義務化ということでございますけれども、法令上はですね、命令に従うことが義務だというようなことでございます」だった。
 これを受けて大岡敏孝環境副大臣は「確かに、私どもの言い方が十分でなかった面があるかもしれません。
すべてのレジ袋を有料化するっていうふうに有料化が義務化されたというふうに聞こえてしまったのかもしれません」
「これから私たちもしっかりと正しく正しく説明するように心がけてまいります」と率直な答弁を行った。

◆法的な強制力もない「お願い」のはずなのに
 別に私は、「環境問題などどうでもいい」「プラスチックなど減らさなくてもいい」などと、一言も言っていない。
それはそれで大事な問題だ。
だが、一言「環境問題」を持ちだせば、手続きも何も飛ばして政府が国民を統制しても良いとする考え方が危険だと言っているだけだ。
 戦時中、東條英機首相は「憲法違反だ」「手続きに問題がある」と指摘されるたびに、「戦争に勝つためだ! 見逃してくれ!」と泣き落とし、それでも言うことを聞かない人間は弾圧、時に死に追いやった。
まだ戦争に勝てたのなら救いがあるが、結果は敗戦で国中が焼け野原になった。

政策の検証がなされないまま、政府が暴走したなれの果てだ。
 今のコロナ禍も同じだ。「未知の伝染病に対処しなければならない!」との大義名分を批判する者はいない。史上初の「国家経済そのものを止める」との試みにも、国民はよく協力した。マトモな補償もないし、そもそも法的な強制力もない「お願い」「要請」なのに。

◆大義名分のもと、国民は飼いならされた羊の如く言いなりになる
 ところが、コロナ禍も3年目。いったい、何の為に自粛を続けているのか?
ちなみにマスクもワクチンも、何の法的強制力もない「お願い」「要請」にすぎないが、いったい何の為にやっているのか、政府が説明している文書を誰か提示できるのか。そして、いつまでこれを続けるのか。

 東條英機も「戦争に勝つ」と絶叫していたが、何がどうなったら戦争に勝ったことになるのか、一度も説明をしたことが無かった。
大戦末期、誰の眼にも敗色濃厚となった時期には「聖戦完遂」を言い出した。
もはや何が「完遂」なのかを聞くのも愚かしい状況だったが、「いいかげんにこんな戦争やめてしまおう」と一言でも言えば、良くて刑務所、悪ければ家を焼かれるか殺された。今のコロナと同じだ。

 コロナ禍の日本政府の政策は、褒めるところが難しいほど愚策の連続だ。
国民の驚異的な忍耐によってのみ、死者や重症者の拡大を防いでいる。
しかし、その国民が政府を甘やかしているので、いつまでたっても愚かな自粛が終わらない。

 結局、戦争もコロナもレジ袋も、根っこは同じなのだ。
「戦争に勝つ」「伝染病を防げ」「環境問題だ」などなど、もっともらしい大義名分を掲げれば、国民は飼いならされた羊の如く言いなりになる。

◆批判不能な権力は、絶対に腐敗する
 そして権力は絶対に腐敗する。
批判不能な権力者は、権力をふるって人に言うことを聞かせる行為そのものに快感を抱くようになる。
 PTAでもいるだろう。その場を仕切ること自体が快感な人が。

何かの目的があって結果を出すために仕切っているのではない。
人を仕切ること自体が快感だから、ひたすら他人を振り回す。
 政治家か官僚が、その種の人たちのようになればどうなるか。  こうなる。今の日本だ。

 ウクライナ問題の唯一の救いは、コロナのニュースを脇に追いやったことだ。
ウクライナで起きていることは遊びではない。殺し合いだ。
 人殺しが国を荒らしまわっている時、政府を批判する余裕はない。
東條のような人物が政府の首班にならないよう、政治を監視する。民主政治の要諦だ
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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