格差を語る人なら絶対押さえたい「共感」の要点、
「資本主義」自体を否定してもしょうがない
5/9(月) 東洋経済オンライン
格差って、ダメなの? それとも必然か!
どういう原因で生じてくるのか、どういう格差が問題なのか?
どういう条件の下でだったら、どの程度の格差は許容できるのか? そして、正義の基準とは?
いまや避けて通れない格差問題。
近年、重要な学問のキーワードになりつつある「共感」とはなにか、を軸に、最近刊行されたばかりの『〈学問〉の取扱説明書』改訂第二版に沿って、議論の道筋を、整理してみましょう。
現代思想の紹介や丁寧なテクスト分析でも定評のある仲正昌樹氏が、大学4年生(♂)と博士課程に在籍する自称“高学歴ワーキングプア”(♀)の質問に答える問答形式で、学問の基本やそのツボを伝授します。
■格差社会に「共感」できるか!? ♀
♀:「共感」しないと、そもそも社会的正義についての議論がはじまらないのでは?
仲正昌樹(以下、仲正):
「社会的正義」について議論する以上、その原点に「共感」があるのではないか、という議論はそのとおりだと思います。
ロールズは「無知のヴェール」の下での選択においては、自己チューな選択と、社会的公正について各人が何となく抱いている「正義感覚」が一致すると考えました。
無知のヴェールの下で「社会的に最も不利な立場にある私」の視点から考えるというのは、「共感」論であるとも言えます。 アダム・スミスも『道徳感情論』(1759年)において、市民社会の中での道徳の基礎として、苦しんでいる人たちに対する「共感」を設定しています。
ちょっとだけ説明しておくと、スミスは人間にはもともと、他者の立場に我が身を置いて共感する能力があるけれど、市民社会の中での多様な経験を通して、いろいろな人の立場に立って公平=非党派的に(impartially)考えることができる能力が培われていく、という議論をしています。
最初はどうしても、自分にとって共感しやすい人への共感に偏っている(partial)けれど、様々な立場を経るうちに、次第に公平になっていくというわけですね。
井上達夫さんや宮台真司さんが、リベラリズムの正義論の基礎だとしている「立場の入れ替え可能性(互換性)」、つまり「その(苦しんでいる)人と立場を交換したとして、あなたはそれに耐えられるか?」という可能性の考察も、スミス流の「共感」論の延長線上にあるのではないかと思います。
そうやって正義の原理としての「共感」を再発見しようという発想には私も賛成なのですが、問題は、特定の形での「共感」を議論の出発点に置いてしまうことにあります。
正義感覚の原点にあるかもしれない「共感」を再構成することは重要ですが、絶対的な出発点にしてしまうとおかしなことになる。
マルクス主義的左翼はマルクス、エンゲルス、レーニンなどが残した主要テクストに基づいて、「格差は人間本性(=労働)に反する」「このまま格差の原因である資本主義を放置すると、世界的破局が来る」というような議論を正当化しようとしていたわけです。
理論を重視する左翼は少なくとも建前としては、共感それ自体を直接的に押し付けるのではなくて、自分たちの理論装置の有効性を証明しようとしていた。
その証明の仕方が乱暴的だとしても、いきなり共感を求めてくるよりはずいぶんましです。
■「苦しんでいる労働者」への共感
♀:でも、マルクス自身の思想の原点にも「共感」があったのではないでしょうか?
仲正:
マルクス個人の心情は本当のところ分かりません。
マルクスの個人の生き方については、マルクス研究者で有名な的場昭弘(1952―)さんがいろんな本や論文を出しておられるので、そういうものを読んでいただいた方がいいと思いますが、少なくとも、マルクス主義という思想運動の原点に、「苦しんでいる労働者」への共感があった、という言い方はできると思います。
ただ、そこで忘れてはならないのは、マルクスは共感をそのまま思想にしようとはしなかったことですね。
今では共産党でさえ、あまり使わなくなりましたが、「科学的社会主義」という言い方がありました。
マルクス以前のフーリエ(1772―1837)とかオーウェン(1771―1858)は、科学的な思考に基づかない「ユートピア的社会主義」だったけど、自分たちは科学的で批判的な思考に基づく「科学的社会主義」だというのです。
もちろん、昔の左翼学生の中には、「科学的社会主義」を信奉している自分たちは知的だと決め付けて、傲慢になっていた者も多かったわけですが、科学的、あるいは学問的な議論をしようとする姿勢自体は重要だと思います。
仲正:
これはマルクス研究者がよく言うことですが、疎外論にこだわっていた初期のマルクスは、ドイツ観念論の影響から完全に脱皮していなくて、かなり主観的な、つまり労働者の現状に直接的に共感するような議論をしていた。
けれど、次第に、人間本性からの「疎外」に見える状態を生み出している構造的要因を客観的に分析するようになり、アダム・スミス的な労働価値説によって成り立つ世界の歪みを把握するに至った。
単なる共感≠フままに留まらないで、その共感の正体を解剖していって、「交換」「貨幣」「資本」「労働」などをめぐる資本主義的世界の構造的問題に行き当たり、そこからその構造的な歪みを正すための理論体系を構築することを試みた。
自分を共感させたものを、必ずしも同じ様に共感してくれない人でも理解できるように、理論的な言語として定式化しようとしたんですね。
そうやってマルクスたちが、共感の根源にあるものを説明するために創り出した概念群が、19世紀後半から20世紀前半にかけての西欧の経済・社会的矛盾をうまく説明し、現状からの脱出口を示しているように見えたわけです。
■労働価値説はもう通用しない
しかし、20世紀の終わり頃になったら、肝心の「労働」という概念が多様化し、人類を2つの階級に分けることが難しくなった。
単純に、肉体労働だけが価値の源泉である、とする労働価値説はもう通用しない。
貧困層が増えているといっても、それに伴って、資本家階級がどんどん没落しているわけではない。
現代ではほとんどの大企業が株式会社になっているので、1つの企業を資産として丸ごと所有している資本家はほとんどいません。
大企業が大株主として他の企業を支配しているのであれば、大企業の重役が資本家に相当すると見る人もいるかもしれませんが、株で資産運用しているのは大企業だけとは限りません。
年金とか保険などの福祉関連のお金も直接的・間接的に入っています。
企業が所有している株の運用益も、その企業の労働者の賃金や福利厚生に回っているということがあります。
各企業が発効している株の配当や運用益のうちのどれくらいが純粋に、大金持ちの個人の懐に入っているのかなどは正確には分かりません。
仲正:
こういうのは、東欧の社会主義諸国が崩壊するずっと前から言われていたことです。
では、なぜ私がそんな分かりきったことを言っているかというと、マルクスと同じような思考回路で、人々を苦しめている矛盾≠フ根源まで遡ろうとしても、ダメだからです。
マルクスは労働者の苦しみを生み出しているものを、スミス的な意味での労働価値説を基礎に成り立っている「世界」の基本構造の中に見出そうとしたわけですが、我々が生きているのは、そういう分かりやすい世界ですか?
■誰かを「資本家」と名指ししたって、あまり意味がない
「資本家」のような搾取の究極の実体のような存在がいるのであれば、それを除去することによって、構造的な矛盾≠解消するという解決策が考えられますが、現状では、誰かを「資本家」だと名指ししたって、あまり意味がない。
「資本家」ではなく、「資本」に問題があるにしても、「資本」をなくして、全て物々交換にするというわけにもいかないでしょう。
「資本」に相当するものが全くなかったら、「生産」を組織化するのが困難になり、社会の中での「物」の流れが止まります。
♂:格差社会を批判している人たちもそういうことは本当は分かっているんじゃないですか?
仲正:
ごく一部の本当にバカな人を除いて、ほとんどの人は「資本主義」自体を否定してもしょうがないことは分かっているでしょうね。
「マルクスの時代と同じ問題がある」とか「蟹工船状況だ」と言っている人も、多くの場合、レトリックとして言っているのでしょう。
そういうレトリックを使わないと、苦しんでいる人に対する共感と表裏の関係にある悪に対する怒り≠ぶつける場所がなくなる、と思っているのかもしれません。
♂:だったら、それほど問題ないのでは?
レトリックだらけになっていて、しかも先ほどお話ししたように、特定のレトリックを強制するような傾向が強まっていることが問題なんです。
資本家であれ政治家であれ、あるいはアメリカの白人富裕層であれ、労働者を不当に搾取しているという意味で「格差」の元凶であり、なおかつ世界経済にとって百害あって一利なしの寄生虫のような人たちを1つのカテゴリーできれいにくくれるのなら、それを声高に攻め続ければいいと思います。
マルクス主義はそれをやり続けたわけですから。
でも、昔のマルクス主義と同じ感覚で、分かりやすい「敵」を名指しして糾弾しても、その名指しされた「敵」にあまり実体がないのは見え見え。
純粋に「搾取」だけして、生産性がゼロの存在がそんなにたくさんいるわけないでしょう。
仲正 昌樹 :金沢大学法学類教授