2022年07月07日

綾小路きみまろさんが「人生は70代で決まる」と思う理由

小路きみまろさんが「人生は70代で決まる」と思う理由
2022.7.6  Diamondオンライン

52歳でブレイクし、中高年の老いをネタに毒を吐いてきた漫談家・綾小路きみまろさんも70代に突入。
わが身の老いに直面するも、それすら「笑い」に昇華し、「できないことが増える毎日に孤軍奮闘。
忙しくて寝る暇もない」と笑い飛ばします。
人間観察を趣味としてきたきみまろさんは、長年、中高年を見続けてきた経験から「人生は70代で決まる」と断言します。
きみまろさんが考える70代とは?『人生は70代で決まる』(幻冬舎新書)より抜粋して紹介します。

きみまろさんも古希に突入 心は10代のまま?
 みなさん、こんにちは。綾小路きみまろです。
 私は52歳でブレイクしたのですが、一昨年になんと古希(こき)になりました。
歩くと膝がコキコキ鳴っている。そんな70代に突入したのです。

一般的に70代というと、「おじいさん」というイメージがあるかもしれません。
ですが、実際に70代になってみると、あらびっくり、精神的には10代のままなのです。  
みなさん、想像してみてください。中身は10代、外見は70代のおじいさんを……。
「ちょっと不気味だわ」という声が聞こえてきそうですが、70代の方は、みなさん頷(うなず)かれているはずです。
人間の心と体というのは、そういうものなのです。

きみまろさんが 「人生は70代で決まる」と思う理由
 そして私は、人生は「70代が勝負」、つまり「70代で決まる」と思っています。
なぜなら、70代というのは多くの方にとって、おそらく元気に過ごせるラストチャンスの10年間だからです。
 あの世に召される前の10年間を満足のいくように生きられれば、死ぬ瞬間に「いい人生だった……」といえると思うのです。
私は昔から、「いい人生だった」と思って旅立ちたいと思っていましたが、いよいよ勝負の70代に突入したかと、少々鼻息が荒くなっております。

 一方で、体の衰えをガクッと感じるようになるのも70代です。
 だからこそ70代は、自分を適度に律しながら、最高の10年間にすべく、やるべきことをしつつ、後悔しないよう楽しんだほうがいいと思っています。
 ところで、60代までなら、誰でも比較的体力に自信がありますし、仕事をしていると友人知人もいて、それなりに楽しく過ごせるでしょう。
 でも、70代からは違います。
これまで積んできた「徳」がものをいい始めるのです。

え?仕事ばかりして、何も「徳」を積んでこなかったから、心もとない?  みなさんの心の声が聞こえてきました。
 でも、ご安心ください。人生において遅すぎることは何一つないのです。
 そう考えると、「終活」なんてそっちのけで、生きる力がモリモリ湧いてきませんか?

 大事なことだからくり返しますが、70代の10年間をどう過ごすかで、「いい人生だった」か「そうでもなかった」かが決まるのです。
 当然、70代はいいことばかりではありません。想定外のことはいくらでも起きるでしょう。

でも、「こんなはずじゃなかった……」ではなく、「毎日が発見だらけだ」と思うのです。
未知との遭遇の毎日は、考えようによっては、とてもエキサイティングです。
私なんて、できないことが増える毎日に孤軍奮闘で、忙しくて寝る時間もないほどです。
退屈している暇なんてありません。

輝ける70代へのご案内を、私が務めさせていただきます。
それではみなさん、さっそく参りましょう。
人生は最後までのぼり詰め、 頂点で死ぬ 「年を取ると、いいことなんか何もない」  そういわれる方は、少なからずいます
これまでいろいろな体験をし、人生を楽しんできたんだから、もう十分だという気持ちは理解できます。
たた、年を取っていいことは何もないという考え方に対しては、私は決してそんなことはないと思いますし、むしろこれからが人生の本番だという考えをもっています。

 私自身71歳にもなると、もの覚えが悪くなったなとか、気づくとあれもこれもできなくなっているとか、「年を取るというのは、こういうことか」と感じることはしばしばありますが、だからこそ、「いよいよ自分も人生の総仕上げの時期に突入したんだな」と思って、やる気がみなぎってきます。

 仮に年を重ねることがよくないことばかりだとすれば、極端なことをいえば、「人生60年」といった昔のように、寿命なんて短くてもいいじゃないのということにもなりかねません。
 ちなみに平均寿命は、ここ100年ほどの間に驚くほど伸びています。
明治時代は43歳程度、江戸時代はおおよそ31歳、もっともっと遡(さかのぼ)って縄文時代なんかは18歳くらいだったそうです。
 それを考えると、長生きをすると、昔の人がしたくてもできなかったいろいろなことができるわけで、私なんかは「ありがたいなあ」と思いながら、毎日を過ごしています。

 ある著名な医師の方が「人生後半は下り坂なんかじゃない。むしろ最後まで人間はのぼり詰めて、頂点で死ぬんだ」とおっしゃっていましたが、「なるほど、いいことをいうなあ」と思って聞いていました。
 死ぬまでのぼり続けていくというのは、ちょっとしんどい気もしますが、ある意味、真実だと私は思います。
 だって、人は生きている限り、なんらかの経験を絶えず積み重ねていきます。

自分が経験することの数は死ぬまで増え続けるわけですから、それに比例して、感動する回数も増えますよね。
 私も舞台が終わって、お客さんが嬉しそうに拍手をしてくださると、「もう死んでもいい」と思うほどの気持ちになります(本当に死んだら困りますが)。
 舞台でなくとも、畑に実った野菜を収穫して近所の方たちに配っているとき「わあ、ありがとうございます!」とお礼をいわれるだけでも、「生きててよかったなあ〜」と満たされた気持ちになります。
 このように生きている限りは人の役に立てて、幸せを感じる瞬間があるわけですから、「人間は頂点で死ぬんだ」という医師の話は、なるほどその通りだなと思わされるのです。

 そして70代というのは、おそらく健康で毎日を過ごせるラストチャンスの10年になるかもしれません。
だからこそ、この10年間の過ごし方で「人生が決まる」といっても過言ではないと思うのです。 人生はいいことばかりではない それでも「のぼり続けていく」 「もはや自分で野菜をつくる体力がなく、寝たきりになった場合も、人生はのぼり続けられるのですか?」  そんな声が聞こえてきそうです。
 私の答えは、もちろん「イエス」です。

 寝たきりになったり、要介護状態になった場合は、人の助けが必要となります。
誰しも、必ずそのような状態になるのです。
そういうときは、お世話してくれた人に対して、心から「ありがとう」といえばいいのです。
そうすると、お世話してくれた相手は「喜んでもらえてよかった」と嬉しく感じるはずです。
 相手にそのような気持ちになってもらうことで、あなたも相手に感動を与えているのです。

 もちろん、人生はいいことばかりではありません。
 長く生きていれば、それだけ家族や親しい友人の死に直面する回数は増えるでしょう。
それに比例して、涙を流すことも多くなるはずです。
 でも、旅立った人たちに泣きながら「今まで、ありがとう」と感謝の念を抱けば、その人は精神的に「のぼり続けていく」といってもいいんじゃないかと思うのです。

70歳からはプライドを捨てて、 カツラだけ残す
 年を取ると、義理や人間関係、モノや名誉……いろいろなものを捨てていったほうがいい、という人がいます。
私も、その考えには賛成です。
 私の場合は、全部捨てて、カツラだけ残す。それは冗談として、捨てられるものはできるだけ捨てて、背負っているものは軽くしていくほうが、老後の人生はむしろ充実していくような気がします。
 義理でも人間関係でもモノでもプライドでも、あればあるだけさまざまな執着が生まれて、窮屈(きゅうくつ)になるものです。
年を取ってきたら、そうしたものから解放され、もっと身軽に、気楽に生きたほうがいいと私は思います。

 人間には、意識していなくても、自然と捨てているものがあります。「若さ」です。
 年を重ねること自体、すでに「若さ」というものを、どんどん捨てていくことに他なりません。
 たとえば、70歳の人間は、50年前の若さも、30年前の若さも、10年前の若さも、3年前の若さも、全部捨ててしまっているわけです。
高齢になれば、膨大な若さの時間を捨ててきている。
 若さというのは、何物にも代えがたい宝のような時間だと思います。
そんなものをたくさん捨ててきているわけですから、義理やモノや名誉を捨てることなんて、それに比べると、どうということはない気がします。
 私だって、昔の舞台を録音したものを聞いたりすると、当時のノリやスピードは薄れ、その代わりに今は別の風味のようなものが生まれてきているのを感じます。
 自分でも気がつかないうちに、自然と何かを捨てているのです。いや、捨てさせられているのでしょう。
 これから先は、行けるところまで舞台に立とうと思っていますが、おそらく酸いも甘いも経験した70代の綾小路きみまろの漫談は、うぬぼれかもしれませんが、一番面白いんじゃないかと思います。
なぜなら「老い」をネタに毒を吐いてきたきみまろ自身、「老い」を日々経験しつつあるからです。
まさに「毎日が発見」状態です。

 でも「老い」を経験できるというのは、ここまで生かしていただいたからこそ、です。
ですから私は日々「老い」をありがたいとかみ締めながら過ごしているのです。

パンツを一人ではけなくっても、 めげない
 70歳近くになって同窓会に行くと、どちらかというと後ろ向きな話がよく聞こえてきます。
骨粗鬆症(こつそそうしょう)だから骨密度を高める薬をずっと飲んでいるだの、人気者だったあの女子生徒は数年前に病気で亡くなってしまっただの、そんな老いの宿命ともいえるような話がどうしても多くなってしまいます。
 電化製品と同じで、限られた命をもつ人間には耐用年数があるのです。
スイッチがつきにくくなったり、年季の入った電化製品がへんな誤作動を起こしたりするのと同じで、人の頭も体も長年使っていると、どこかが消耗しておかしなことになるのでしょう。

 私は一昨年古希になりましたが、歩くと膝がコキコキと鳴って、大変です。
 先日も脚立にのって木の枝を切ろうとしたら、膝がぐらぐらしてしまって、「ああ、これが70歳ということか……」と思いました。
 パンツも一人で、はけなくなりました。といっても、誰かの手が必要ということではなくて、壁の力を借りてのことです。以前は立ったままはけたのが、今は体のバランスが崩れてコケないよう、壁にドンと手をつきながらでないと、はけない。  壁を背にした女性の前に立ちはだかった男性が、壁に手を男らしくドンとおいて、格好よく女性に愛の告白をすることを若い人たちの間では「壁ドン」と呼ぶそうですが、老人には老人ならではの壁ドンがあるのです。
 格好よさとは、ほど遠い壁ドンです。  そもそも心臓や肺などの臓器、眼や耳などの感覚器官は、耐用年数があらかじめ遺伝子によって決められているんだそうです。

 それによると、おおよその年数は50〜60年。
ですから、それ以上、健康に長くもたせるか否かは、本人の努力にかかっているということです。

 車は車検に出すと、不具合な箇所を指摘して部品を交換してくれたりしますが、人間もときどき病院などに行ってチェックを受けて、悪い箇所があれば治していく必要があるのでしょう。

太く短くの生き方と 細く長くの生き方
 最近は少なくなりましたが、昔の芸能界には、太く短くみたいな生き方をする人がけっこういました。
 本人は何も自分の人生が太く短くていいなどとは考えていないと思いますが、わっと華やいだ生活を続けていると、どこか無理をするのかもしれません。
 太く短くの生き方と、細く長くの生き方、どちらがいいというわけではありませんが、私は顔に似合わず、後者の細く長くの生き方なんです

70代で人生が決まる、と思っているくらいですから。  若い頃は多少の無理は何ともありませんが、年を重ねると、無理はじわじわと、体に蓄積されていきます。
体の声に頻繁に耳を傾けて、無理をせず、大事に生きる。
そんなことを、私は年を取るほど意識し、実践するようになりました。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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