安倍氏銃撃で誰もが思った「要人警護」の不十分さ
「シークレットサービス」とは何が違うのか
吉川 圭一 : グローバル・イッシューズ総合研究所代表
2022/07/10 東洋経済オンライン
7月8日午前11時30分前後、奈良県で選挙遊説中の安倍晋三元首相が銃撃され、17時3分ごろ死亡が確認された。
筆者が気になったのは報道を見る限り、首相に同行していたSP(セキュリティ・ポリス)が1人だったことだった。
SPとは1975年に三木武夫首相(当時)襲撃事件を契機として警視庁内に設置された要人警護部門である。
国会に議席を有する各政党の代表者や各国から来日する要人等の身辺警護を任務とする。
警視庁以外の警察本部にも警護担当部署は存在しており、例えば大阪府警と京都府警では警衛警護課が、神奈川県警などでは公安第二課が警護を担当する。
その他の小規模な県警察本部では「警備部警備課警衛警護係」として少人数の専従員が編制されているのみである。
例えば首相が地方に行く場合、近接警護をSPが行い、それ以外の後方支援を地元県警の警護担当部署が行う。
元首相の場合、同行するSPは1人程度 戦後の日本では国家警察が存在しない。
そのため最大の警察組織である警視庁が準国家警察のような役割を果たし、各県警を支援するような形式になっている。
しかし、今回の件を受けてこのシステムで十分なのか、さらには、県警が十分な協力ができるのか、という疑問が出る。
警視庁はSPの人員を公表していないようだが、ネット上で出てくる情報では数百人程度とも言われている。
そのためか元首相の地方遊説等に関するSPの同行は今回と同様に1人程度で、そのほかに現地の県警から40人前後の警察官が参加するなどが一般的らしい。
8日夜に開かれた奈良県警の会見では、警護体制の詳細を明らかにしなかったが、地方の県警は予算などの制約が多く、訓練なども十分ではない可能性がある。
このように国家警察のない日本のシステムには問題が多い。
一方、アメリカのシークレットサービスは6000人以上の人員を抱えている。
そして全国組織である。 アメリカも連邦制国家なので国家警察は存在しない。
私見ではアメリカ連邦捜査局(FBI)は検事局の特捜部や公安部に近い存在である。
そのため国家警察的な役割はいくつもの省庁に分散している。
例えば禁酒法時代にアル・カポネの組織を壊滅した「アンタッチャブル」は財務省のアルコール・タバコ・火器および爆発物取締局に所属していた。
シークレットサービスも最初は南北戦争直後に偽札捜査を目的に作られた財務省の組織だったが、20世紀に入ってから大統領警護の任務を行うようになり、1951年に議会によって正式にその役割を任命された。
そして2001年に同時多発テロ事件を受けて作られたテロ対策官庁国土安全保障省に移管された。
警護官だけでも3000人はいる シークレットサービスにはホワイトハウス周辺の警備を行う制服部門に1300人、応急医療技術の提供と、化学・生物・放射線兵器への対処を行う技術部門に2000人が配置され、その他に設立以来の業務である通貨関係の犯罪捜査を行う部門もあるものの、警護官だけでも3000人はいる。
その警備の対象は、 ・アメリカ合衆国正副大統領とその一家 ・次期正副大統領 ・元大統領の一家 ・訪米中の各国元首と、同行するその配偶者 ・その他の大統領令で定められた個人 ーーなどである。
このようにシークレットサービスは組織も人員も充実し、しかも全国組織である。
元大統領の警護も任務に入っている。アメリカでも元大統領を警護するシークレットサービスは1人程度とも言われているが、家族まで含めれば数人はいる。
今回、安倍氏は元首相だったとはいえ、与党最大派閥のトップだったことを鑑みると、SPの数はもっと多くてもよかったのではないか、という指摘をしている専門家は少なくない。
なおシークレットサービスになるにはジョージア州の連邦法執行センターで13週間、そして、首都ワシントンにあるシークレットサービス・アカデミーで18週間の訓練が必要になる。
その結果として物理的な警護の方法だけではなく、警護に必要な事前の調査の方法や、そのために必要な法的手続き、そして現地警察との協力の方法等を身につける。
後述するネット上での情報調査も部分的に含まれる。
日本のSPも「先着警護」として警備対象者より先に現地に赴き、不審者や不審物がないかなどの情報収集を行なっている。
このたびもそうであった可能性が高いが、省略してしまう場合もあるようだ。
日本のSPも、特に選抜された警視庁警察官が厳しい訓練を受けて就くことに変わりはないが、その訓練期間は12週間とシークレットサービスよりは短い。
ちなみに少し古いデータだが、2011年にはシークレットサービスに1万5600人の参加申請があったが、採用されたのは1%未満と狭き門だ。
日本の警視庁全体の職員数が5万人程度なことを考えると、その層の厚さに大きな違いがある。
日本でもシークレットサービスのように警備体制がもっと手厚く、組織化されていれば、今回のような悲劇は防げた可能性は低くはない。
オバマ元大統領と前科のある人物が鉢合わせ
ただし、シークレットサービスにも失敗はあった。
全国組織なのでニューヨーク事務所もあったが、それが2001年当時はテロ攻撃を受けた、世界貿易センタービル内にあったため、同時多発テロの際には死亡者も出している。
また、オバマ政権時代にはホワイトハウス内への不法侵入事件や武器を持った前科のある民間警備員と大統領がエレベーターで乗り合わせてしまうなど不祥事が続き、ジュリア・ピアソン長官が引責辞任している。
これなどはオバマ氏のマイクロ・マネジメントの行き過ぎによる士気の低下が原因ではないかと私見では思う。
大統領暗殺といえば、筆者としては1981年のレーガン大統領暗殺未遂事件が印象に残っている。
この時の状況は今回の安倍元首相襲撃と類似しており、シークレットサービスからも負傷者が出ているが、大統領の生命は守っている。
犯人ジョン・ヒンクリーは映画『タクシー・ドライバー』を見て、大統領暗殺事件を起こせば、映画内と同様にヒロインを演じたジョディ・フォスターが自らの恋人になってくれるものと妄想し、事件を起こしたのだった。
ヒンクリーは統合失調症だったとして裁判では無罪になり、35年間精神病院に強制入院させられた後、2016年に多くの制約を課されたものの釈放され、2020年には創作活動を発表する自由を得てYouTubeで音楽を発表し、本年6月には一切の制約から解放された。
ヒンクリーが科されていた制約は以下のようなものだった。
・飲酒 ・銃器、弾薬、その他の武器の所持 ・レーガンの遺族、ジョディ・フォスター、彼女の家族らに連絡すること ・暴力的な映画、テレビ番組などの視聴 ・ブラウザーの検索履歴の消去 特に最後は重要である。
最近は日米共に検索履歴が犯罪捜査の重要証拠になりつつある。
拙著『サイコ型テロへの処方箋』の中で主張したように、個人情報保護との兼ね合いが難しいものの、検索履歴がわかれば、重大犯罪を計画している人物の身柄を事前に抑えることが容易になる可能性がある。
安倍元首相銃撃事件の容疑者も手製の銃器を使ったようであるが、ネット上で作成方法を学んだ可能性が高い。
個人情報保護法の問題はあるものの、そうした前の段階で察知できなかったものだろうか。
日本で規制強化の議論は必要か
なお、ヒンクリーは今年6月末に成立したアメリカの新しい銃規制を支持しているそうである。
精神障害者が銃を入手できなくするのはいいことだという言い分だ。
6月末の銃規制法案では確かにメンタル・ヘルスの強化に関する支援も含まれている。
銃購入者の身元確認の強化は言うまでもない。
それだけではなく、危険人物と見なした人物から銃器を取り上げることができる「レッドフラッグ法」の全州での制定への支援も含まれている。
同法は、家族や同僚、法務執行機関、メンタルヘルスの専門医などが、自分や他の人に危害をもたらす兆候のある者の銃器保持を禁止する命令を裁判所に申請できるというもので、アメリカではいくつかの州で成立している。
警備強化ももちろんだが、基本的人権を侵害しない範囲で、検索履歴の調査や日本版レッド・フラッグ法の制定など、この度の事件を契機として、日本でもテロや犯罪を未然に防げるような制度の検討をする議論が必要ではないだろうか。
少なくとも要人警備に関しては今のような制度ではなくシークレットサービスのような国家組織が必要なのは確かだろう。
この度の悲劇に接して、そのような思いを深くせざるをえないのである。