2023年03月28日

学びをそれっぽい一般論で終わらせない方法

学びをそれっぽい一般論で終わらせない方法
思考停止をやめて2ミリの差分を積み重ねる
荒木 博行 : 学びデザイン社長
2023/03/27 東洋経済オンライン

昨今の激しい市場環境の変化や、長寿化によって職業人生が長くなることにともない、リスキリングが注目されている。
商社の人事部で、個々人のキャリアアップについて考え、ビジネススクールで教鞭を執り、数々のビジネスパーソンの悩みに耳を傾けてきたVoicyの人気パーソナリティでもある著者が、「知」を消費するのではなく、自分の一部とする独学について語る。
「今、何か学んでいることはありますか?」
もし、あなたがこんなことを聞かれたらなんと答えますか。
ちょうどスクールのような場所に通っているような方であれば、胸を張ってそのスクールの名前やそこで教えられている学問の名前を答えるかもしれません。
もしくは、オンラインコミュニティに参加している方であれば、そこでの主要テーマを答えるかもしれません。

もちろん、そういった明確な目的があり、誰かが設計したカリキュラムがあるような場は「学び」としてすぐに想起しやすいでしょう。
しかし、実は私たちが多くのことを学んでいるのは、日常の些細な場面です。
平凡な一日こそが、貴重な「学び」の場といえるのです。

その学びは本当に知らなかったことか?
では、ここで言っている「学び」の定義とは何でしょうか。
それは、一言で言えば「経験の前後の差分」です。
つまり、とある経験をする前の自分(A)と、その後の自分(B)の差分(BーA)こそが「学び」の正体に他なりません。
それを聞けば、何ら意外性はなく、まあその通りだと感じるかもしれません。
しかし、この新鮮味のない学びの定義も、実践の現場ではそれほど当たり前ではありません。

ビジネススクールや研修の現場などで多くの方と接していて感じた実感知として、多くのケースで、前後の差分のないものを「学び」と言ってしまっているからです。
たとえば、もし身近にセミナーや講演に参加した人がいれば、「そのセミナーで何を学んだの?」と聞いてみてください。
おそらく、大半のケースは、その参加者がセミナーを受ける前から知っていたはずの内容を語るはずです。
たとえば「組織には心理的安全性が大事だってことを学んだ」とか「DXができない会社は負けていくんだよね」とか……。 そんなことをどれだけ熱く語っても、先ほどの「経験の前後の差分」(BーA)という定義に照らし合わせれば、その内容は「学び」ではありません。

なぜならば、その回答は単なる(A)、つまりセミナーに参加する前から知っていたことだからなのです。
一般論で片づけては、何も見いだせない もちろん、そのセミナーから何も学ばなかったはずはありません。経験したことには必ず差分が発生していたはずです。
しかし、このような凡庸な「学びもどき」が出てきてしまう背景の一つには、「それっぽい一般論」の力があります。

たとえば、事例に挙げたような「心理的安全性」とか「DX」のような「それっぽい一般論」は、私たちを何か学んだ気にさせてくれる力があります。
そして、それと同時に、本来私たちが追求しなくてはならない「差分」の追求の動きに蓋を閉じてしまうのです。
もし私たちが何かを学ぼうと思うのであれば、このような「それっぽい一般論」をそのまま放置してはなりません。
そういう一見きれいでまとまった言葉を排除して、知的な負荷をかけながら、「自分にとって」何が新しい発見だったのか、ということを突き詰めていく必要があります。

ポイントは、隣の人が絶対語れないこと、昨日の自分が語れないことを探すこと。
つまり先ほどの経験を経て、今この瞬間の自分だけしか語れない具体論は何か、ということを削り出していくのです。
この「自分だけの具体論」というのは、おそらくいろいろな前提条件がついた形となり、それほどキャッチーでもなく、無骨な言葉になるはずです。でもそれでいいのです。それこそが、経験から抽出される学びの本質なのです。
そして、この過程を丁寧に重ねていくことで理解することは、「大きな学び」というものはたいてい幻想にすぎない、ということです。

もし私が新入社員で、職場に配属された初日だったとしたら、目にするもの全てが学びになるでしょう。
初日はその学びの大きさに圧倒され、疲労困憊したはずです。
しかし、同じ仕事を10年続けていたとしたら、一日の学びはどれくらいでしょうか。
おそらくほとんどが既知のことで、学びはほぼ存在しない、と言ってもおかしくありません。

つまり、ここまで長い人生経験を積んできた人にとっては、真に新たなことを経験できる機会は少なく、ほとんどの瞬間が既知の枠内だということも言えるのです。
どんなに素晴らしい経験をしたとしても、所詮は誤差の範囲。

「前後の差分」という意味における学びというのは大きくなりようがないのです。
学びは些細な2ミリの積み重ね しかし、たとえそれが「大きくならない」とか「誤差の範囲」であっても、「まったくない」ということではありません。
似たように見えて、一日一日は異なり、一瞬一瞬のその経験には必ず何かの変化があります。
つまり、まったく同じ経験があり得ない以上、どれだけ小さくとも必ず学びを生み出す「差分」を見いだすことはできるのです。
私はそのニュアンスを伝えるために、「2ミリの学びを削り出せ」という言葉を使っています。

「2ミリ」というのは当然比喩ですが、本質的な学びというのは、それくらい些細なことだということです。
大仰な言葉で既知の感想を並べるのではなく、些細だけど具体的な学びを重ねていく。
成長というものは、このように「塵も積もれば山となる」という慣用句のごとく、日々の2ミリ程度の学びを積み重ねていくことに他ならないのです。
しかし、いつでも「2ミリの学び」を削り出せるわけではありません。
学びを拒否してしまう心境というのは誰にでもあります。
そういう際には無理して適当な言葉にして取り繕うのではなく、一時の感情によって学びを変質させないための行動が必要になります。

その点を補足しておきましょう。
皆さんには、感情がネガティブに振れるような経験をしたことが少なからずあるでしょう。
たとえば、イベントがとてもつまらなかった、とか、見た映画のクオリティが低かった、とか。ライバルと思っていた人のプレゼンテーションがとても良くて嫉妬の感情が湧きあがった、といった経験もあるかもしれません。

本来、このような経験こそ、「前後の差分」をしっかり削り出して、次につなげたい場面です。
しかし、そのような経験は、得てして「あんなプレゼンは大したことない」とか、「自分はなんてダメなんだ」という極端な感情論に終始し、示唆が得られない可能性があります。
感情が高ぶるような経験、特にネガティブな感情に囚われるくらいの大きな経験は、「前後の差分」の宝庫です。
しかし、それは心のあり方として学びを得るのにふさわしくありません。
感情が学ぶことを拒否して、2ミリ単位の微妙で繊細な「前後の差分」を削り出すことまで至らないからです。

ノイズを減らす「寝かせる」ことの効果 ではどうすべきなのでしょうか。
常に余計な感情を取り除いて、クリアな頭で学びに向き合うことができればそれに越したことはないのですが、人間はそんな器用ではありません。
そんな中でノイズを低減させるには、経験と学びの間にインターバルを作ることが重要です。
つまり、あえて一拍(もしくは数拍)置くのです。
しかしインターバルを空ければ、その経験の瑞々しい記憶が薄れてしまいます。

そこで、私がおすすめしたいのは、その経験についての事実を描写して残しておく、ということです。
イベントに参加したのだとしたら、その時に起きた出来事を丁寧に描写しておくだけにとどめる。
本を読んだのなら、そこで重要だと思った箇所を抜き出すだけにしておくのです。
そこからの「経験前後の差分」という解釈は、その時点では保留状態にしておく。
そして、感情が抜け落ち、その経験の意味を深く考えられるような環境になった時に言葉にすればいいのです。

コラムの冒頭で、平凡な一日こそ貴重な学びの場だというメッセージをお伝えしました。
その意味するところは、つまり、講師がいなくとも、カリキュラムがなくとも、経験の前後に発生した些細な差分を削り出すことができれば、その経験は学びの場になる、ということです。

そして、皆さん自身も、この章を読む前と読んだ後で、「2ミリの差分」は生まれているはずです。
その正体は何か。それを「自分だけの具体論」で表現してみましょう。
そうすれば、この「差分」を通じた独学の意味がより理解できるはずです。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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