2023年12月09日

「真珠湾を生き延び、特攻で戦死した」飛行機乗り…彼が「壮絶な戦場」で目にしていたもの

「真珠湾を生き延び、特攻で戦死した」飛行機乗り…彼が「壮絶な戦場」で目にしていたもの
12/8(金)  現代ビジネス

太平洋戦争の戦端を開くことになった真珠湾攻撃。
 この攻撃に参加した900人近い隊員のなかには、その後、幾多の激戦を生きのびながらも、1944年に始まる「特攻」で命を落とした人も少なくない。
 そのひとり、原田嘉太男(かたお)さんは、その壮絶な経験のなかで何を感じていたのか
 *本記事は、大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

来るかわからない未来
 爆弾を装着し敵艦に突入する最初の真珠湾攻撃隊員となったのが、1945年2月21日に戦死した原田嘉太男飛曹長だった。  鳥取県米子の農家に長男として生まれた嘉太男さんは、空母「赤城」の艦上爆撃隊(艦爆隊)の一員として真珠湾攻撃に参加した。
この時嘉太男さんは22歳。嘉太男さんが真珠湾の直前に母のつる子さんに送った手紙には、適齢期を迎えた息子のためにあれやこれやと世話をしようとする母に「一生の伴侶として良き人自分の眼で選びますから安心して下さい」「来年頃はと思って居ます」と書き送っている。
 だが真珠湾後、嘉太男さんが結婚に向けて動いた形跡はない。
それは、艦爆隊員が真珠湾で直面した過酷な運命と無関係ではないかもしれない。
地上すれすれまで急降下して爆弾を投下する艦爆隊は、奇襲攻撃だった真珠湾ですら、15機が撃墜。
赤城の戦闘行動調書を見てみると、原田さんの機体にも多くの銃弾が命中していたことが記されている。

 アメリカ軍の猛烈な対空砲火を相手に戦う艦爆隊は、その後も大きな犠牲を出しつづけた。
紙一重で生と死が分かれる戦場を目の当たりにした嘉太男さんにとって、その人生のなかに結婚を位置づけることは、容易なことではなかったのだろう。

突然の結婚
 そんな嘉太男さんが、1944年10月、突然、結婚をすることとなった。
故郷の母への手紙で、母の決めた女性と結婚する、と伝えてきたのだ。
つる子さんが選んできた相手は、米子で造り酒屋を営む家の娘、達子さん。
嘉太男さんの訓練基地があった愛媛県の松山に両家の親と達子さんがやってきて、式は挙げられた。

 嘉太男さんは、その年の6月に行われたマリアナ沖海戦に空母「飛鷹」から出撃し、辛くも生還している。
そして、マリアナで壊滅した部隊を、松山の基地で訓練し建て直しているところだった。
 この海戦で嘉太男さんは、3人の同期生をはじめ多くの戦友を失った。
自分の命ももう長くはないかもしれない、と覚悟したに違いない。
だが一方でそれは、来るかわからない未来でもあったし、生き延びる運命にあるかもしれなかった。
結婚を先延ばしにしている間に、嘉太男さんも25歳になっていた。

 その時の嘉太男さんの気持ちを、戦後、嘉太男さんに代わって家を継いだ弟の昭さんは、こう推し測っている。

 【昭さん】
 兄は、この戦争を生き抜くことの難しさを骨身に沁みて感じながら、家の長男として跡取りを残すという務めも果たさなければならないと考えたのかもしれません。
そしてそのことを理解してくれた達子さんとの見合いに、踏み切ったのでしょう。

硫黄島への特攻という重責
  嘉太男さんは、松山で達子さんと4ヵ月の新婚生活を送った後、1945年2月中旬、千葉県にある香取基地への進出を急遽命じられる。
そこで、新型の艦上爆撃機「彗星」を使った特攻隊が編成されることが伝えられる。
 目的地は、千葉の南1000キロ離れた硫黄島だった。
直前の2月16日に艦砲射撃が始まり、間もなくアメリカ軍の上陸が予想されていた。
硫黄島まで2時間近く大海原の上を飛び、島周辺の海域にいる敵空母を発見し、これを撃沈する。
この困難な任務を遂行するには、練度の高い偵察員(ナビゲーター)が必要だった。
そして、艦爆、艦攻、戦闘機合わせて32機60人を率いる隊長機の偵察員として選ばれたのが、嘉太男さんだった。

 この日が来ることを、嘉太男さんはあらかじめ、達子さんと細やかに話していたのだろう。
出撃前夜に達子さん宛に残した遺書には、「言ふべきことは松山で言った通り。最後に女々しく何も言はぬ」「元気で暮せ。明日は征くぞ」と記し、「最愛の達子殿」としめくくっている。
 出撃直前の嘉太男さんをとらえた写真がある。
向かって左に立つのは、空母「蒼龍」の艦爆隊として真珠湾攻撃に参加した中川紀雄飛曹長。右に立つのは、真珠湾には参加しなかったものの、ミッドウェー以来の激戦を生き抜いてきた平迫孝人飛曹長。
嘉太男さんと肩を並べる2人の熟練搭乗員の複雑な表情が、胸を打つ。
 ただひとり、吹っ切れたような嘉太男さんの表情は、この期に及んで見苦しい真似はしたくないという、せめてもの矜持だったのかもしれない。

 「第二御楯隊」と名付けられたこの隊で唯一の真珠湾攻撃隊員として、編隊の先頭を飛ぶ隊長機の偵察席に乗り込んだ嘉太男さんは、その重責を全うした。
この隊は、夕暮れ間近の硫黄島近海にアメリカ艦隊を発見し、一隻の空母を撃沈し、一隻を大破させ、他にも多くの艦艇に損害を与えた。
それは絶望的な戦いを続ける硫黄島の陣地からも望見され、将兵を勇気づけたという。

 「行きたくはないですけど、私ひとりじゃありませんから」
 だがこうした崇高な自己犠牲が、負の連鎖に陥っていくのが、終戦間際の日本軍だった。
この第二御楯隊の戦果を聞いた昭和天皇は、海軍の作戦立案の責任者である軍令部総長の及川大将に向けて「硫黄島に対する特攻を、何とかやれ」と命じることになる。

大島 隆之(NHKエンタープライズ ディレクター)
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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