赤穂浪士が仕えた殿様は“女好きの暴君”だった!?
「忠臣蔵」がテレビから消えた残念な理由
小林 明 歴史ライター
2023.12.31 ダイヤモンドオンライン
「忠臣蔵」はかつて、時代劇の定番としてお茶の間に親しまれていた。
赤穂藩主だった浅野内匠頭の敵(かたき)を取るべく、47人の赤穂浪士が集結。因縁の吉良邸に攻め入るという筋書きである。
しかし実は、忠臣蔵の“悲劇の主人公”である内匠頭の評判は芳しくなかった。
「昼夜、奥に入って美女と戯(たわむ)れ…」と残念な記録も残っている。
そのせいか、同作品はテレビから消えつつある。
実際は問題児だった内匠頭の“バカ殿”ぶりに迫る。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
時代劇の定番「忠臣蔵」が テレビから消えた!?
昭和の時代劇を代表した『忠臣蔵』が、テレビから消えつつある。
NHK大河ドラマでは平成11(1999)年の『元禄繚乱』が最後だ。
もはや討ち入りを美談と捉えるのは時代錯誤であり、命を賭して主君の仇(あだ)を討つなど、今の世の中になじまないからだろう。
大河以外のNHK時代劇では平成28(2016)年、『忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣』といった、若い浪士と赤穂藩江戸屋敷奥女中とのラブストーリーを描いた作品などがあるものの、スピンオフといっていい。
また、映画では令和元(2019)年、討ち入りにかかる予算に翻弄される大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)を主人公とした『決算!忠臣蔵』や、来年公開される予定の『身代わり忠臣蔵』もあるが、いずれもコメディーであり、往年の悲劇的なストーリーは色を薄めている。
さらに、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に斬りかかった罪で切腹した赤穂藩主・浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)が、実は短慮で女性に目がない“暗愚な殿様”だったことも、歴史家の著作を通じ、一般に知られるようになってきた。
内匠頭は決して悲劇の主人公ではなく、感情に流されて暴挙に走ったあげく家臣を路頭に迷わせた、トンデモない人物だったのだ。
この事実が明るみに出たことも、忠臣蔵がテレビから消えつつある要因かもしれない。
では、内匠頭とはいったいどんな男だったのか
浅野内匠頭は女好きで 政治に興味なし!?
「内匠頭」とは官職である。
本来は、8世紀に創設された「内匠寮」(ないしょうりょう)という役所の長官を指す。
内匠寮は朝廷が使用する調度品などを製作・調達・管理していたが、江戸時代には実質が伴っておらず、内匠頭も大名に与えられた名目上の肩書の一つにすぎない。
実際、浅野も京都に出仕していたわけではない。
名は長矩(ながのり)。
生まれは江戸・鉄砲洲(てっぽうず)の赤穂藩上屋敷だった。
当時は参勤交代に伴い、大名の妻は江戸の藩邸に留め置かれたため、生まれた男児(世継ぎ)は当然、江戸生まれ、江戸育ちとなる。
鉄砲洲は、現在の東京都中央区築地だ。
今は聖路加国際病院が立っている。
吉良上野介は長矩を「田舎侍」と罵倒したと、ドラマや映画は描くが、バリバリの都会っ子だった。
なお、長矩の名は一般にはなじみが薄いので、ここでは内匠頭で統一する。
田舎侍どころか、都会っ子だったのが難点だった。
内匠頭に限らず、大名家の若殿はそろって国許(くにもと/自らの領地)を知らなかった。
江戸後期の水戸藩の学者・藤田東湖(ふじた・とうこ)は自著『常陸帯』(ひたちおび)で、「定府の人(参勤交代で江戸藩邸に住む大名や藩士)は国の人を田舎者と嘲(あざけ)り、国の士は定府の人を軽薄者と謗(そし)り政事の妨げ」と書いている。
江戸と国許との間に確執があり、それが藩政の妨げになっていると嘆いている。
内匠頭も同じように、地元の赤穂を田舎と、下に見ていた可能性は捨てきれない。
幕府からの評価も低い。
赤穂事件が起きた元禄14(1701)年頃、幕府は全国の藩の石高や財政状況、藩主の評判などを調査した報告書『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)を残している。
そこに掲載された内匠頭の評判だ。
「知恵があり利発だが、たいへん色を好む。
ゆえに主君にへつらう家臣は美女を探し求めて主君に勧め、立身出世する。
昼夜、奥に入って美女と戯れ、政治は幼少より成長したいまに至るも家老にまかせきり」
幕府は大名を査定する立場にあるため、ことさら辛口だったといえるかもしれない。
しかし、ここからうかがえる人物像は周囲に担ぎ上げられた「バカ殿」に他ならない。
パワハラ上司とボンボン部下… 吉良と内匠頭は「最悪コンビ」
元禄14年3月14日午後6時、刃傷沙汰を起こしたわずか7時間後、内匠頭は切腹した。35年の生涯だった。
東京大学史料編纂所教授だった山本博文(故人)は自著でこう述べている。
「だから言わないことじゃないと思って、(江戸家老が)遺骸の受け取りにも行かなかった」(『東大教授の「忠臣蔵」講義』角川新書)
山本が言う「言わないことじゃない」とは、内匠頭に吉良との関係を修復した方がいいといさめても、内匠頭が聞く耳を持たなかったため、家老たちが危惧していたことを指している。
実際、内匠頭が藩の幹部たちの助言を無視したという証言も、尾張藩の文書『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)にある。
このため、遺体を引き取りに来るよう命じられた赤穂藩江戸藩邸の重鎮に、江戸家老(江戸藩邸の最高責任者)の姿がなかったというわけだ。
切腹を命じられ「罪人」に落ちてしまったので、幕府に忖度(そんたく)して遺体引き取りを自重した可能性もあるだろうが、これほど「死」をないがしろにされた殿様も珍しい。
一方、吉良も評判の良い人物ではなかった。
「横柄な人と聞く。過大な進物などを平気で受け、人の物を方々で欲しがってせびり取ることが多い」(『秋田藩家老岡本元朝日記』)
吉良は三河国吉良庄(愛知県)に所領を持っていたが、石高は4200石で、赤穂藩5万3000石の約12分の1の旗本だ。
赤穂藩はこの他にも、「赤穂の塩」で知られる塩田を経営しており、財政は豊かだった。
だが、吉良は高家(こうけ)の筆頭である。
高家とは幕府が儀式典礼を行う際の一切を執り仕切る、有識故実を熟知した名門の家柄で、室町幕府を興した足利家の血を引く。家格は浅野家より上だ。
その名門・吉良に儀礼の作法を教わるのが内匠頭の「お役目」であり、この時代、教えを請うならお礼を贈るのは慣例だった。
だが、内匠頭は当たり障りのない物しか贈らなかったらしい。
このことを吉良が気に入らず、重要な連絡事項をあえて知らせないなど、今でいえばパワハラも働いたという。
現代に置き換えると、吉良はパワハラ上司だといえる。
内匠頭は慣例を無視する半面、根拠のない自信に満ちたボンボン気質の30代部下だ。
この二人は元々、相性が最悪のコンビだったのである。
藩士たちの退職金は 一人約780万円
播磨国(兵庫県)の赤穂藩に事件の顛末と、内匠頭切腹の知らせが届いたのは、3月19日だった。
翌20日にはお家取りつぶしの裁定が伝わった。 領内は大混乱に陥った。
赤穂藩は藩札(はんさつ)を発行していた。
藩札は領内だけで流通する独自の紙幣で、発行することによって資金調達が容易となる。
事件当時の発行額は銀900貫、約18億円に及んでいたが、取りつぶしとなれば、これらの藩札は紙切れだ。
そのため、藩札を購入していた商人が一斉に城へ押し寄せた。
国家老の大石内蔵助は額面の六分(ろくぶ)で両替し、商人たちにカネを渡した。
また、4月14日に城を幕府に明け渡すまでに藩の財産も処分し、そのカネを約300人の藩士に分配した。
今でいえば社員の退職金にあたる。
几帳面だった大石は、その詳細を『預置候金銀請払帳』という、赤穂事件の処理のいわば「決算書」に残している。
それによると、元禄14年分の家臣の俸禄(給料)に退職金を加算した総額は1万9619両で、現在に換算すると約23億5000万円。分配金額は職責によってバラつきもあったろうが、ここでは単純に300人で均等に割る。そうすると、1人当たり約780万円となる。
この金額を高いと見るか、安いとするか?
住み慣れた赤穂を離れ、新しい地で生活を始めるには、決して十分とはいえなかったろう。
そうした「負の遺産」を、内匠頭は家臣に押しつけた。
刃傷沙汰を間近で見ていた江戸城の役人・梶川与惣兵衛(かじかわ・よそべえ)は、取り押さえられた内匠頭が、興奮した様子でこう言ったと記録に残す。 「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」(『梶川氏筆記』) (現代語訳:上野介にはここしばらく遺恨があったゆえ、殿中であり大切な儀式の日ではありましたが、やむを得ず斬りかかりました)
家族や家臣・領民のことなど、頭からすっぽり抜けている。
短慮であり、見境がないという他ない。
また、与惣兵衛は幕府の目付から事情聴取を受けた際、「上野介も脇差を抜いたか?」と問われ、「見不申候」(見ていません)と答えた(『梶川氏筆記』)。
これは大切だった。というのも、武士同士のトラブルの裁定はけんか両成敗が原則だったからだ。
吉良は抜刀していないのだからけんかは成立せず、両成敗も必要ない。
罰せられるのは内匠頭のみという結論になる。
だが、わずかな退職金で放り出された赤穂藩士たちに、この理屈を納得しろといっても、無理だった。
内匠頭の暴挙は、吉良に対する深い恨みを家臣たちに根づかせてしまった。罪深い殿様だったといわざるを得ないだろう。
●参考文献
『忠臣蔵の決算書』新潮新書/山本博文
『東大教授の「忠臣蔵」講義』角川新書/山本博文
『これが本当の「忠臣蔵」』小学館新書/山本博文