週刊誌がいま「日本最強のメディア」になっている理由…「推し文化」との意外な「共生関係」
2/24(土) 現代ビジネス
週刊誌の影響力が増している
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〈昨今の状況においては、週刊誌こそが最大権力者です。
政治家よりも、インフルエンサーよりも、芸能人よりも、週刊誌とか、メディアこそが権力者になってしまっています。
かれらが潰したいと思った人、人間なんてだれだって恥ずかしいこととかヤバいこととか、どっかしらあります。
それをすごく極端に書けば、悪人なんていくらでもつくれます。
「ファクトというけど、お前らがファクトを都合よく選んでるだけとちゃうんかい」ということあります。
そうやってひとりの人間をいくらでも消せます。
そして、莫大な利益を得ます。週刊誌こそがもはや権力者です〉(箕輪厚介の部屋「松本人志のミスと週刊誌の印象操作について解説します」2024年1月11日より引用)
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近ごろ、週刊誌の影響力がますます大きくなっている。
ダウンタウン・松本人志氏の性加害疑惑を報じた週刊文春、あるいはサッカー日本代表・伊東純也氏の性加害疑惑を報じた週刊新潮など――世間でもネットでも週刊誌発の報道が話題にならない日を見かけなくなった。
箕輪厚介氏は自身のYouTubeのなかで「週刊誌こそがいまの日本の最大権力者だ」と指摘する。
その善し悪しの評価は別として、たしかに週刊誌はいま、社会に対してかつてないほどの影響力と存在感を示すようになってきている。
私自身、週刊誌と仕事をしたこともあり、その節は大変お世話になりましたということで揶揄や誹謗の意図はないことはあらかじめ断っておくが、「週刊誌」というメディアに対する世の中の “文脈” がここ最近になって変わったように感じている。
ひと昔前までは「週刊誌=下世話でアヤシい話が載っているもの」といった世間の受け止め方が一定程度あったものだが、しかし現在は大きく様相が異なる。
たとえば週刊文春の報道に対するリアクションを観察してみると、SNSではそれを「正義のジャーナリズム」あるいは「悪を註するビジランテ(私的制裁者)」として歓迎している人が大勢いることが見えてくる。
週刊誌はいま、紙媒体だけでなくウェブ媒体も同時更新する形でSNSとシナジーを起こしている。
SNS上で多くの人が参加する「炎上」や「ソーシャル・スクラム」の話題を提供することで、人びとの関心や怒りを追い風にし、いままで以上に強大な影響力を持つことに成功している。
伝統的に週刊誌の「ターゲット」になりやすかった芸能をはじめとする各界の著名人は、みずからの過去の言行を思い返しながら、次に報じられるのは自分かもしれないと戦々恐々としているのではないか。
「銀の弾丸」を生み出したもの
週刊誌の報道が、ときに法や手続きをすっ飛ばして相手を制裁する、ある種の「超法規的正義」と化していること自体については賛否は大きく分かれている。
正義の執行であると喝采を送る人もいれば、法や秩序を壊す反社会的行為だと非難する人もいる。
しかしながら私は、善きにつけ悪しきにつけ、週刊誌がその強大な社会的影響力を持つに至ったことそのものの背景には、私たち全員がかかわっていると指摘しておきたい。
週刊誌に喝采を送る人は言うまでもないが、しかし「週刊誌はけしからん」「裁判所を気取るな」とネガティブな意見を持つ人さえも、週刊誌の影響力に加担している部分はあるといえる。
というのも、週刊誌がここまで圧倒的な力を持つようになったのは、芸能をはじめとする著名人に対して私たちがいまや当たり前に実践するようになった「推し(推す)」というカルチャーが、その最大の原因だからだ。
現代社会の人びとは、著名人を好きになるときに「ファンになる」のではなく「推し(推す・推せる)」という語を好んで用いる。
「私は〜のファンです」とは言わず「〜は推せる」と言って、特定のだれかを応援する。
その背景には、その人を純然たる好意や憧れなどから応援したいというより、「その人のことを応援している」という自分のポジションがSNSでつながっている不特定多数の人びとに可視化されることを予期し、「その人を推している」という行為によって道徳的優位性や向社会性やファッション性を獲得したいという動機がある。
ようするに、「好き」であることを周囲に示せば自分自身が善人であるとか良識的であるとかセンスがいいとか思ってもらえるような人を、現代人は「推す」のである。
逆にいえば「推し」の時代においては、応援していることや好きであることを公言したときに「えっ……あんな非道い人を応援しているなんて……」と言われてしまうような人を、まかりまちがって「推す」ようなことはあってはならないということだ。
いままで「推し」ていた対象がなんらかの理由(たとえばスキャンダルの露見や逮捕など)で、「推す」とかえって自分自身にマイナスの評価をもたらすような存在になってしまえば、世間の人びとは過去にその人を「推し」ていた事実がわかってしまう投稿をSNSからすべて消去して、スッと音もなくその場から立ち去る。
そんな軽さが「推し」にはある。
応援しながら醒めている
「ファン」の語源は「熱狂する」を意味する “fanatic” である。その対象が周囲からどのような社会的・属人的評価を向けられようが、あるいはその対象を好きであると公言したことで自分がどのような視線を向けられようが、おかまいなしに愛と情熱を向けるような没頭的営為こそが「ファン」になるということだった。
だが「推し」はそんな熱狂とはほど遠い。応援しながらもつねに頭は醒めている。
いうなればつねに “半身” の姿勢なのである。なにか不測の事態があれば、いつでも自分がそこから立ち去れるような準備をした状態で「推す」のである。
善性や向社会性や道徳性やオシャレっぽさが得られるかぎりは「推す」が、評価が丸ごとひっくり返ってしまうようなアクシデントが起こってしまったら、サッと「推す」のをやめるのである。
――このような世間の人びとの “半身” の態度こそが、いま週刊誌を超法規的な存在にまで押し上げている。
他人を応援している風で、じつは自分の社会的評価のことばかりを気にしている、「応援する対象の評価」で右往左往するような雰囲気こそが、週刊誌の権力をどんどん大きくしていった。
「だれがなんと言おうが、どんなスキャンダルがあろうが、この人のことをずっと応援するんだ」という盲目的な「ファン」がいなくなり、きょろきょろと周囲の様子を伺いながら、自分が周囲の人から褒められそうな「推し」を探す。
そんな半身の時代だからこそ週刊誌は「この世の最大権力者」になることができた。
もしいまの時代でも「はァ? だからなんだってんだよ。芸人にいちいち真っ当な社会道徳なんか求めてんじゃねえよ」と平然と突っぱねるような文脈が世の中にあれば、週刊文春が放つ「文春砲」もそれこそ豆鉄砲くらいの威力しか出せなかっただろう。
誰もが「キャンセル」を望んでいる
はっきり言ってしまえば、「文春砲」も「キャンセル・カルチャー」も、それらをやる主体だけで成立している営為ではない。
「悪い」とされる人間を応援していたというかどで、自分も悪人の仲間にされたくない――そんな臆病まじりの俗欲が世の中の人びとに素朴に内面化されてしまったことこそが、「文春砲」や「キャンセル・カルチャー」を、超法規的正義の発生装置たらしめている。
週刊誌が報じた相手に反論の機会を与えることなく、ましてや公正な裁判の場を設けるよりも前に、社会的地位や名誉に回復不能なほど強烈な制裁を加えられる状況に対して、それを危惧する声も次第に大きくなってきてはいる。
あるいは週刊誌のみならず、特定のイデオロギーで集まった先鋭的な集団が、市民社会に(ときに暴力的な手段をちらつかせる)圧力を行使して現状変更を求めるような行為についても危機感を持つ人が増えているだろう。
だが、自分の一挙手一投足がSNSでシェアされ、「善い人だと思われたい」という意識がなによりも優先される時代精神こそが、かれらの比類なき権力をお膳立てしたのだということは留意しておくべきだろう。
法や秩序を超越して他者を焼き殺す怪物は、どこからともなく勝手に現れたのではない。
ほかでもない私たち一人ひとりの臆病な功名心が召喚したのだ。
御田寺 圭