日本人の美徳"自己犠牲""滅私奉公"は絶対ダメ…仏教がすべての「利他」は「私」から始まるべきと説く理由
2024年04月09日 PRESIDENT Online
幸せに生きるにはどのような精神が必要か。
僧侶の松波龍源さんは「仏教ですべてのものごとは、自分の認識によってのみ成り立っているから、利他を考えるには起点を『私』にしなければいけない。
つまり、日本で美徳とされがちな自己犠牲や滅私奉公の精神は、本来の仏教的な意味では利他といえない」という――。
※本稿は、松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。
■利他のために、まず「私」を考える
現代でもよく使われる「利他」という言葉を仏教的な意味で理解するには、仏教の基礎的な世界観を把握しておく必要があります。
まず、仏教で利他を考えるときには「私」を起点とします。
他者の利益を考えるのになぜ「私」目線なのかと、不思議に思う方もいるかもしれません。
しかし、思い出してください。
すべてのものごとは、自分の認識によってのみ成り立っているのでしたね(唯識)。
「あの人にとって、私はこういう存在だ」と思ったとしても、その認識は「私」のもので、他者の認識は推量することしかできません。
しかも万物の本質は「空」であり、あらゆるものは縁起であって、目の前の現象は因果関係の結果として、自分の心というスクリーンに映写された像のようなもの(中観)。
その像に、「私」が自分の認識で意味づけをしているのです。
つまり言葉で「利他」「他者」といっても、その認識は自分の中にしかありません。
だから利他を考えるには、起点を「私」にしなければいけないのです。
では、その「私」とは何なのでしょうか。
「私」の存在は他者があって初めて成立します。
なぜなら、全宇宙に自分しかいなければ「私」は認識されないし、そもそも「私」の概念も必要ないからです。
この時点で、【私=「私以外のすべてのもの」ではないもの】という等式が成り立ちます。
仏教は関係性の哲学です。
あらゆるものは、因果関係・相対関係がなければ「空」からこの世界に現出することができません。
「私」も、自分以外の他者との関係があるからこそ特定されるのです。
すなわち「私」を含めたあらゆる存在は、それ以外のすべてのものに担保される事実がある。
「私」と他者は、相互依存関係にあるのです。
このように考えると、先ほどの等式から一歩進んで【私=私以外のすべてのもの(他者)】ということができます。
なんだか不思議な等式が出てきましたが、この等式は「釈迦牟尼が『こうだ』と言ったから」という宗教的な“教え”ではなく、論理を積み上げた結果として導かれた、客観的な一つの視座であるということが、おわかりいただけたと思います。
■自己犠牲は利他ではない
この等式を前提に、もう少し現実的なレベルで考えてみましょう。
すべての生命は「より良く」「有利に」生きようとします。
これは、理屈ではなく根源的に備わっている本能のようなもので、生まれた瞬間に「ああ死にたい」と思う命はないはずですよね。
人間であれば、幸せを求め、苦痛から離れようとします。
根源的な本能ですから、「私」も他者も、誰もが幸せになりたいという欲求を持っていることになります。
ここで、先ほどの等式を思い出してください。
【私=私以外のすべてのもの】とイコールで結ばれているので、「私」の幸せのための行為は他者の幸せにもなるし、他者の幸せは「私」の幸せにもつながります。
利他的な発想や行為が良しとされるのは、この論理があるからです。
大乗仏教は、自利と利他が両立した状態「自利と利他の一致」を理想としています。
ですから実は、日本で美徳とされがちな自己犠牲や滅私奉公の精神は、本来の仏教的な意味では利他といえません。
なぜなら、自分が犠牲になったら、自分とイコールでつながる他者も犠牲になってしまうからです。
仮に自己犠牲による利他が成立しているように見えても、それは一時的な場合で、長期的にはバランスが崩れてしまいます。
反対に、他者を犠牲にして自分の利益だけを考える我利我利亡者も、論理的にあり得ません。
自分が幸せになりたいのであれば、自分とイコールでつながっているすべての他者の幸せを考え、その実現のために判断・行動する。これが、大乗仏教における利他の真理です。
■自分以外の他者が消滅すると、自分も成り立たなくなる
このように話すと「では、自分と他者を区別せずに考えるのですか?」という質問をいただくことがありますが、区別すべきかどうかは場合によって異なります。
仏教では、さとりの境地やその真理を「勝義諦(しょうぎたい)」、世俗一般の世界やその真理・真実を「世俗諦(せぞくたい)」といいます。
しかし耳慣れない言葉なので便宜上、本書では西洋哲学の形而上、形而下という言葉を使います。
厳密に一致しているわけではありませんが、おおむね「勝義諦≒形而上」「世俗諦≒形而下」として差しつかえないでしょう。
形而上世界(さとりの世界)と形而下世界(私たちが生きる現実世界)は一緒にしてはならず、分けて考える必要があります。
まず、形而上世界はさとりの境地であり、「空」の世界ですから、先ほどお話しした通り「私」と「私以外のもの」に区別はありません。
すべてのものは関係性で成り立っており絶えず変化していくので、自分以外の他者が消滅すると、自分も成り立たなくなります。
自分と他者に本質的な区別を見いだすことはできない、「あれ」と「これ」が違わない、というのが、形而上の真理です。
一方、私たちが実際に生きている形而下世界においては、私とあなた、コップとマイクなどと、それぞれの存在が物質レベルで区別されますね。
形而上では区別しないけれど、形而下では区別する。このように形而下と形而上は分けて考える必要があるのですが、両者は別個に存在しているのではなく、互いに矛盾しつつ、それでいてぴったり一致しています。
目の前のものは、形而上(空)を本質とし、因果関係の作用の一つの現れとして形而下に存在するのであって、形而上の真理の現れでもあるからです。
それゆえに仏教では、形而上でも形而下でも、そこにあるものに価値の優劣はないと考えます。
■小さな虫を弾き飛ばしてはいけない理由
ですから、ときどき耳にする「この世は虚像の世界だから意味がないんだ」「真理が『空』なのであれば、私たちが生きる形而下世界には価値がない」というような言説は、正しくありません。
たしかに「私」は、目の前にいる牛やカマキリとは別の存在です。
しかし本質は「空」で区別されないこと、そしてその価値に優劣がないことを合わせて考えると、「ただの虫けらだ」と指で弾き飛ばすなどの行為は、やはり慎むべきでしょう。
「触角を抜いたらどうなるんだろう」と興味本位でいたずらをしてしまった子ども時代を、今は深く反省しています。
たとえ小さな生き物でも、自分と同じように「より良く生きる」という本能を持っており、その本質(空)は自分と平等なのだ。
私たちに問われるのは、この認識を持って他者に向き合えるかどうかではないでしょうか。
しかも、他者と向き合っている自分も「空」であり変化するので、そのときどきの状況や環境、他者との関係に応じて、何をすべきかを判断しなくてはいけません。
このあたりが、仏教の厳しいところだと感じます。
唯一絶対の神がいる宗教であれば、「神様が言ったこと」を絶対的な行動基準にすればいいでしょう。
しかし仏教はそうではなく「あなたが自分の責任で判断し、行動しなさい」と言うのですから、厳しいですよね。
けれども、まぎれもない真理でもあります。
そのときに正しい判断ができるよう、私たちは智慧をつけなければいけません。
先人が積み上げてきた知の体系や身体を使った修行は、そのためにあるのです。
■すべてのものは関係性のネットワークで成り立つ
現代の日本で利他といえば「利他的な振る舞いをすれば、回りまわってメリットが自分にも返ってくる」といったところでしょうか。
「情けは人のためならず」ということわざもあります。
資本主義社会における即物的な考え方のように思うかもしれませんが、仏教的な意味の利他とも、おおむね同じように使われていると私は感じます。
これは、弘法大師がもたらした密教の曼荼羅で説明することができます。
曼荼羅を再度、ごく簡単に説明すると、すべてのものは関係性のネットワークで成り立ち、「私」という認識主体がそれを認識していることを示す模式図のようなものです。
万物の根源的な本質はネットワークそのものであり、それは常に揺れ動いていると考えます。
この論理に基づくと、「私」も他者もネットワークの一部で、大きな構造体を構成する結節点の一つだと考えることができます。
ということは、他者という結節点にポジティブな働きかけをすれば、その影響はネットワーク全体に及び、同じネットワークの結節点の一つである自分にもポジティブな影響があるというわけです。
これは、「利他的な振る舞いをすれば、回りまわってメリットが自分にも返ってくる」という現代の一般的な使い方とよく似ていますね。
ただ、それをあまりにもツール的にとらえて自分の利益を目的にしすぎると、「自利と利他の一致」ではなく、自利が勝ってしまいます。
すると全体のバランスが崩れたときに、かえって自分に悪影響が及ぶことにもなりかねないので、気をつけたいところです。
■「空」の思想は争いを回避するヒントになる
一例を挙げると、日本では多くの企業が商品を売るために「消費者も喜ぶだろう」と価格の安さを追求した結果、社会全体の給与が下がってしまう現象が起きていますね。
消費者が安く買えて商品も売れるのは、一見すると自利と利他の一致のようですが、自分も他者も同じネットワークの一部であるという視点が抜け落ちてしまっています。
「私」も他者も同じネットワークの住民である。
もっといえば、ネットワークそのものが「私」であり、他者でもある。
このような認識を持ち、自利と利他を同じものとして考え行動することが、結局のところ、リスクを最も低く抑えられると思うのです。
それに、自分と他者を切り離した考え方は、究極的には争いを生んでしまいます。
なぜなら、形而下世界に生きる私たちは、時空間を共有することができないからです。
ある人が座っている場所に自分も座りたければ「どいて」と言うしかありませんよね。
そのとき、自分も他者も本質は平等だという「空」の真理を思い出せば、争いを回避し、何とか折り合いをつける方向に向かえるのではないでしょうか。
■欧米の寄付文化を仏教的に見ると
余談になりますが、欧米、とくにアメリカでは寄付文化が顕著ですよね。
経済的に恵まれた人が寄付をすることが、ある意味で社会的義務のようなカルチャーがあります。
もちろん彼らの行動原理は、仏教ではないものに基づくでしょうから、その心理を私が語ることはできません。
ただ寄付という行為そのものを見ると、これも仏教の利他とよく似ていると感じます。
富を持つ人がその一部を、それがなくて困っている人に向けて放出する行為は、彼らが自身を(無意識のうちに)ネットワークの一部だと考えていると思うからです。
悲しいことですが、犯罪やテロ行為は、犯人の貧困が遠因になっていることがあります。
その社会に生きる人々にとって、犯罪の発生はハッピーではありませんから、お金や力を持つ人が、その一部を社会に分けることで偏りを減らそうとするのは、彼ら自身を含めたネットワーク(社会)全体にとってプラスになることです。
洋の東西を問わず、(自己犠牲ではない)利他的な行為は、ネットワーク全体を少しでもポジティブにするものだということでしょう。
私たちは「より良く生きたい」という本能を持った生物ですから、自分の利益を考えること自体が悪いわけではありません。
大切なのはその際に、自分は他者と切り離せない存在であり、大きなネットワークの一部である事実を忘れないことです。
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松波 龍源(まつなみ・りゅうげん)
僧侶・思想家