『ごんぎつね』教科書にない衝撃のラスト「ぐったりなったまま…」の真意
山本茂喜:香川大学名誉教授
2024年05月09日 ダイヤモンドオンライン
ラストのオチがなんとも切ない「ごんぎつね」や白馬の運命が胸を打つ「スーホの白い馬」など、国語の教科書には大人になった今こそ読み返したい珠玉の名作の数々が掲載されている。
長らく国語教育に携わった著者が、授業では教わらなかった読み方や作品背景をひもとく。
本稿は、山本茂喜『大人もときめく国語教科書の名作ガイド』(東洋館出版社)の一部を抜粋・編集したものです。
■国民的な教材として読み続けられている本当に悲しいラストシーン
ごんぎつね
新美南吉
その中山から少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。
ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。
そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。
畑へ入っていもをほり散らしたり、菜種がらのほしてあるのへ火をつけたり、百姓家のうら手につるしてあるとんがらしをむしり取っていったり、いろんなことをしました。
(光村図書 小4)
本当に悲しいラストシーンです。
「ごんぎつね」が国語の教科書に初めて載ったのは、昭和31年。
昭和55年にはすべての国語教科書に掲載されるようになりました。
まさに国民教材として読み続けられているのも、しみじみとした切ないお話が好きな日本人にぴったりということでしょう。
季節は秋。
もずの声。すすきの穂に光る雨のしずく。萩の葉。いちじくの木。そして彼岸花。月夜に、松虫の鳴き声。ごんが兵十に届けるものは、栗に松たけです。
まさに古きよき日本の山里の秋が描かれています。
それはこの切ない物語の舞台としてまことにふさわしいと言えるでしょう。
ごんは、「ひとりぼっちの小ぎつね」です。
もしかしたら親ぎつねは人間に撃たれてしまったのかもしれません。
「子ぎつね」ではなく「小ぎつね」なのですが、少なくとも成熟した大人のきつねではないでしょう。
自分のせいで、「うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう」と思い込んでしまうごんは、無垢で純朴な子ぎつねなのです。
だからこそ、撃たれてしまう姿がいっそう哀れで胸に迫るのですね。
「つぐない」の物語なのか
「求愛」の物語なのか
「ごんぎつね」については、以前から、「つぐない」の物語なのか、「求愛」の物語なのか、という二つの読み方があります。
つまり、うなぎを盗んだつぐないに、栗やら松茸やらの秋の味覚をせっせと届けるごんの「罪の意識」を中心に読むのか、その奥にある、兵十に自分をわかってもらいたい、仲良くなりたい、という願望を「求愛」として捉えるのか。あなたはどちらでしょうか?
「求愛」説を唱えた岩沢文雄さんは、「作品『ごんぎつね』は、求愛のうただ。うたの美しさは、孤独な魂が愛を求めて奏でる、哀切のひびきの美しさだ」(『文学と教育その接点』鳩の森書房1978)と熱く主張しています。
その背景には、新美南吉の当時の恋愛体験があります。ごんぎつねが書かれたのは、南吉が弱冠18才の時。
その頃の悩みに悩んでいた恋愛が反映されていると考えられているのです。
南吉は詳細な日記を残しています。
そこには、M子さんへの熱烈な思いと、いろいろな事情からそれが決して結ばれることのない恋愛であることが綴られています。
物語のラストに注目してください。
「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは」と兵十が声を掛けます。
ごんは、最後に自分がプレゼントしていたことに気づいてもらうことができました。
南吉の書いた草稿が残っていますが、そこでは「権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました」と書かれています。
つまり、自分の存在に気づいてもらって、うれしい気持ちで死んでいくのです。
「ひとりぼっち」だったごんの心の空白は、兵十の一言によって満たされます。
この物語は、心を通わせる相手を求める話だと言えるでしょう。
たしかにそれは「友」というより、「愛」を求める物語と言っていいかもしれません。
自分の存在に気づいてもらいたい、そう思い続けながら、せっせと相手に愛を捧げる話なのです。
ようやくわかってもらえた時は、命が尽きる時だった。
このアイロニー(皮肉)に満ちた結末には、やはり南吉の切実な願いが込められているようです。
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スーホがなでてやると、白馬は、体をすりよせました。
そして、やさしくスーホに話しかけました。
「そんなにかなしまないでください。それより、わたしのほねやかわや、すじや毛をつかって、がっきを作ってください。
そうすれば、わたしは、いつまでもあなたのそばにいられますから。」
スーホは、ゆめからさめると、すぐ、そのがっきを作りはじめました。
(光村図書 小2)
あらすじ
モンゴルの楽器「馬頭琴」にまつわる、こんなお話があります。
昔、おばあさんと二人で暮らす貧しい羊飼いの少年スーホがいました。
ある日、スーホは白い子馬を拾います。
スーホは心を込めて世話をします。やがて、雪のように美しい馬に育ちました。
ある時、とのさまが競馬の大会を催します。白馬は見事に優勝しました。
ところがとのさまは、スーホに白馬を差し出すように言います。
スーホは断りますが、白馬は無理やり連れて行かれてしまいます。
白馬は、家来たちを振り切り、弓矢で討たれ傷つきながらも、少年のもとに帰ってきました。
しかし翌朝、息絶えます。
嘆き悲しむ少年の夢枕に、白馬が現れます。
そのお告げの通り、少年は白馬の体をすべて使って、琴を作ります。
それ以来、モンゴルの草原を、馬頭琴と、少年の美しい歌声が流れるようになったのでした。
馬頭琴は、棹の先端が馬の頭の形をした、胡弓や二胡のような楽器です。
この馬頭琴はいったいどんな音色なのだろう、と長い間気になっていました。
今のように気軽にネットやYouTubeで調べられるようになる前の話です。
椎名誠さんが「白い馬」(1995)というモンゴルを舞台にした映画を作りました。
その中で、実際にモンゴルの老人が、草原で馬頭琴を弾きながら「スーホの白い馬」について語る場面が出てきます。
そこで初めて聞くことができました(その後、実物の馬頭琴も手に取ることができました)。
やはり哀愁のある音色です。死んでもなお、姿を変えて、いつまでもそばにいてくれる……。これは、いわば究極の愛の形でしょうか。
死んでも約束を守ろうとした
健気な白い馬
スーホは草原に置き去りにされていた生まれたばかりの子馬を抱きかかえて連れて帰ります。
子馬はすくすくと育って雪のように白く美しい白馬になりました。
「これからも、どんなときでも、ぼくはおまえといっしょだよ」というスーホの言葉を、白馬はうれしく思ったに違いありません。
そして死んでもなおこの言葉を守ろうとしたのでしょう。
とのさまに奪い取られた白馬は、追っ手に弓矢で討たれながらも、走り続けてスーホの元に戻ってきます。
そして息絶えてしまいます。
突然ですが、私が飼っていた白黒ネコのチーズさんは、神戸の六甲山の捨て猫でした。
ある時、山のふもとまで連れて行かれてまた捨てられたのでしたが、再び山の上まで自力で戻ってきたそうです。
時々ニュースにもなりますが、犬や猫のこうした行動はなんとも健気です。
ましてや最後の力を振り絞って戻ってきてくれたのですから、「かなしさとくやしさ」で幾晩も眠れなかったというスーホの気持ちもよくわかります。
「そうすれば、わたしは、いつまでもあなたのそばにいられますから」
この白馬の言葉通り、スーホが馬頭琴を奏でると、すぐそばに白馬がいるような気持ちになります。
これはある意味、永遠の愛を手に入れた少年と白馬の物語なのでしょう。