2024年05月22日

現実と夢の区別はつかない!?恐山の禅僧が説く「苦」の正体と、現代における「諸行無常」とは

現実と夢の区別はつかない!?恐山の禅僧が説く「苦」の正体と、現代における「諸行無常」とは
5/20(月   婦人公論.jp

厚生労働省が行った「令和4年 国民生活基礎調査」によると、悩みやストレスの原因として最も多く回答されたのは「自分の仕事」、次いで「収入、家計、借金等」だそうです。
人生には数多くの「苦」があるなか、「生きているだけで大仕事。
『生きることは素晴らしい』なんてことは言わない」と話すのは、恐山の禅僧・南直哉さん。
今回は、南さんが説く、心の重荷を軽くする人生訓を自著『苦しくて切ないすべての人たちへ』より、一部お届けします。

* * * * * * *
◆「苦」の正体──覚めない夢、破れる現実
学校と相性の悪かった私は、学生時代に数々の苦杯を舐めたが、その幾つかは余程のトラウマとなったのか、50を過ぎても夢に出て来た。

一つは、高校の定期テストで、科目は何かわからないが、1問もわからず、このままだとゼロ点だという瀬戸際に追い込まれて、あまりの焦燥で失禁しかけたとき、なぜか着ている服の袖が作務衣であることに気づいて、「あれ?」と思った途端に目が覚める、というものである。

もう一つは、どういうわけか、永平寺への入門が決まったのに大学の単位が足りず、卒業できなくなる夢である(実際には卒業後、一般企業に就職してから出家した)。

浅知恵でよく知らない洋酒を買い、それを持参して指導教授(それがいたのかも今やわからない)のところに、泣き落すつもりで駆けつける途中、思い切り転んでしたたか顔面を打ち、あまりの痛さに両手で顔を覆ったら、服の袖が作務衣──。

このように馬鹿げた夢を、50を過ぎても、疲労が蓄積すると決まって見ていた。
ただ、馬鹿げていることは確かだが、見ている最中は正しく「現実」である。
あの焦燥は実際に大量の寝汗をかかせ、私を疲労困憊にさせたのである。

◆現実と、夢の中の「現実」
では、目覚めている時の現実と、夢の中の「現実」はどこで区別したらよいのか。
現実と「現実」、それぞれの内容では区別できない。
「現実」がいかに馬鹿げていようと、「現実」の中にいる人物には現実なのだ。

この区別は、「現実」から目覚めるかどうか、それだけにかかっている。
よく「夢が破れる」と言うが、それは違う。「現実」が破れて夢になるのである。

したがって、今度は逆に、大災害や突然の戦争などで、日常生活という現実の方がいきなり破壊されると、人は茫然として「悪夢を見ているようだ」と言うのである。
また、認知症が次第に進むと、当人は「夢と現実の区別がつかない」と言い出すことがあるのだ。

ということは、現実と「現実」、すなわち現実と夢の違いは、そう当たり前なことではない。
夢がイメージなら、我々の現実も実はイメージである。
我々は自分の身体をメディアにして、外界を五感などの感覚器官を通じて認識しているに過ぎない。
認識しているのは、ナマの外界そのものではなく、そのイメージを現実として構成しているのだ。

◆大乗仏教の「唯識」思想
イメージという点で、現実と夢の区別はつかない。
違いは、そのイメージがどれだけの規模と強度で、いかに長く他人と共有されているか、だけである。
規模と強度と期間──それらが他に勝るイメージが、我々の現実となる。
夢の「現実」は、“最弱の現実”として淘汰されるわけである。

このことを大乗仏教は「唯識(ゆいしき)」とよばれる思想で、大昔から教えている。
この思想を極端に単純に言ってしまえば、我々は「存在しているものを認識する」のではなく、我々の「認識が一切の存在をつくり出す」ということである。

唯識思想は、我々と外界、存在するあらゆるものが、「阿頼耶識(あらやしき)」と呼ばれる、根源的な意識から生まれてくるのだと言う。
それは当然個人の意識を超え、個人の意識を拘束する。それが共通の「現実」を作り出し、我々に現実を与えるのである。

この思想に全面的に賛成するかはともかくとして、我々が手にすることができる現実がイメージにすぎず、要するに夢と質的に差がない「現実」でしかないことは、事実である。

となると、問題は「何を認識するか」ではなく、「どう認識するか」になるだろう
認識の仕方で存在するものの在り様が変わってしまうからである。
まさにここが、いまの時代に大きく浮上している「バーチャル・リアリティ」「フェイクニュース」問題の勘所である。

人間の現実はつい最近まで、基本的に身体という、共通の構造を持つメディアのみで作られていた。
つまり、「身をもって知る」「体で覚える」ことが現実の保証であり、だから、我々は共有の規模が大きくて強度が高く、長期間通用するイメージを確保して、現実として持ち得たのである。

ところが、人間の身体的な感覚や、それに基づく認識を、拡張したり変形する技術が急激に発展し普及すると、その技術の種類と強度に応じて、現実は分裂していく。

今はまだ、身体に機器を装着する段階だから、身体に保証された現実と機器による「現実」の区別は残る。
しかし、それが長期間装着され続けるか、生まれた直後から装着させられ、機器が身体化すれば、この区別は無意味になるだろう。

さらに状況が先鋭化すると、我々が今まで普通に向き合っていた現実は、分裂して様々な「現実」が生まれ、それが競合し、淘汰され選別されて、我々に対してより拘束力の強い「現実」(=共有される夢)が、晴れて現実の地位に就くことになるだろう。
日本の『攻殻機動隊』というアニメーション映画、『マトリックス』というアメリカ映画が垣間見せるのは、そういう世界である。

◆あらゆる現実は必ず破れる
だが、所詮、夢が破れるように、いかなる現実も必ず破れる。
我々の現実も「現実」だと知る。これを「諸行無常」と言うのだ。
ならば、真に「リアル」と言えるのは何か──。

リアルなのは、あらゆる現実は必ず破れる、という事実である。
いつ、どこで、なぜ破れるのか、それは決してわからない。
でも、破れる。これが仏教の言う「苦」である。
いかにそれを望もうとも、確かな、我々に忠実な現実は存在しない。

したがって、我々はこの先、現実が実は「現実」に過ぎないことを肝に銘じて、それがいかに作られるのかに目を凝らさなければならない。
それとは別の、誰にも共通で不変の、絶対的な現実は無い。
リアルとは、「現実」が常に破れる事実を言うのであって、バーチャルとは、いつまでも「現実」が続くという錯覚である。

破れる以上は作り物である。ならば、どのように作られているのかを知ることが、より「確かな現実」を見極める方法であろう。おそらく、「確からしさ」を競う時代は、何かを理解する前に、何を信じるかを問われるようになっていく。

そのような時には、人々はより簡単で強力な「確からしさ」を欲望するようになるだろう。この新たな欲望は、それぞれの自由を誰かが説く「確からしさ」に明け渡すことを招くかもしれない。
何が確かな「現実」なのかを考え選び取る困難に耐えかねて、誰かの「現実」に我が身の全てを委ねたくなるかもしれない。

次に来るのがどのような時代なのか、管見の及ぶところではないが、現実が揺らぎ、確かな「現実」が失われつつあるように見える今、はるか2500年前に「諸行無常」を説いた人物は、自分の生きていた世界と時代を、その「現実」を、どのような眼でみていたのだろうと、思えてならない。

※本稿は、『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮社)の一部を再編集したものです。

南直哉
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康・生活・医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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