「有名人の不倫報道」はなぜ“蜜の味”なのか?
他人の不幸を喜ぶ人の悲しい末路
6/19(水) ダイヤモンド・オンライン
芸能人のスキャンダルや、知人の失敗や失恋などの不幸話を聞いて、誰もが大なり小なり「蜜の味」を経験しているはず。
しかし、エスカレートすると他人に不信感を抱かせたり、心を傷付けたりすることもあるので要注意。
そうならないための解決策を、チャンネル登録者数66万人超の人気“YouTuber和尚”が教えてくれる。
※本稿は、大愚元勝『これでは、不幸まっしぐら 今すぐ変えたい30の思考・行動』(株式会社佼成出版社)の一部を抜粋・編集したものです。
● 他人の不幸を消費することで 自分の劣等感をごまかしている
週刊誌の「文春」が芸能人のスキャンダルを報道し、それが「文春砲」として注目されてからというもの、芸能人のスキャンダルに対して世間の目が向く機会が増えたように感じます。
いままでは、中吊り広告の見出しを見て、雑誌を手に取った人だけが読んでいた情報が、ネット上で非常に強い拡散力をもつようになったからでしょうか。
こうしたスキャンダルに関心を寄せる人は、昔も一定数はいたのでしょうが、現代ほど、それが露骨にあらわれている時代はなかったように感じています。
また最近では、謝罪会見だけでは済まず、芸能界引退に追い込まれるなど、世論の影響力ははかりしれなくなりました。
もちろん、スキャンダルとして取り上げられるようなことをした本人に非があることは間違いありません。
しかし、冷静に考えてみれば、会ったこともない芸能人の不祥事など、多くの人の人生にはなんの関係もないことです。
そうであるにもかかわらず、なぜ関心が寄せられるのかといえば、「他人の不幸は蜜の味」だからです。
失敗した人、不幸のどん底にいる人を見て、「自分はあの人に比べたらまだ幸せなほうだ」と、相対的な見方で安心感を得たい――そんな感情が背景にはあります。
このことは脳科学の分野でも証明されています。
たとえば、家族や親しい友人に不幸があったとき、多くの人は「なんとか支えになれないか」と心を配るのですが、相手に対して日頃から劣等感があったり、自分よりも優れているものをもっていて、妬たましく思っていたりする相手だと、その人の不幸が蜜の味になると言われています。
芸能人の不祥事に関心が寄せられるのは、芸能人がテレビやドラマの第一線で活躍するなど、多くの人が憧れる人生を生きているからかもしれません。
他人とはいえ、充実している人を見て「うらやましい」という気持ちが無意識に生じているため、不祥事でその地位が失われる姿を見て、「この人にも不幸はあるんだな」と安心感を得ている。
別の言い方をすると、自分の劣等感を、他人の不幸を見ることでごまかしているのです。
しかし、近年のスキャンダルがこれまでと違うのは、不祥事を起こして危機的状況にある人を見て安心するだけにとどまらず、SNSを通じて、匿名で誹謗中傷するという行動にエスカレートしていることです。
他人からバッシングを受ける気持ちは、想像を絶する苦痛だと思います。
誹謗中傷で追い詰められ自ら命を絶つ人もいるなかで、責められる人の気持ちにまで思いが及ばず、さらにおとしめるような行動に出てしまう背景には、深刻な劣等感がはびこっているのではないかと思えてならないのです。
● 身近な人の不幸に関心を持つ ようになったら心の危険サイン
芸能人のスキャンダルは、あくまで「他人の不幸は蜜の味」の代表的な例にすぎません。
最も注意しなければいけないのは、職場の同僚や知人など、現実の生活のなかで他人の失敗や不幸に関心をもっている人です。
身近にいる人に対してさえも、他人の評価を下げることで、相対的に自己評価を高めたいという心理的な欲求が働いているのは非常に危険です。
本人が自覚しているとは限りませんが、このケースでも他人の不幸に関心を寄せることで自分自身が抱える劣等感を一時的に忘れようとしているに過ぎないからです。
あたりまえの話ですが、他人の不幸を見て一時的に劣等感から気を紛らわせられたとしても、自分自身の劣った部分が根本的に解消されるわけではありません。
本当に劣っている部分があるならば、克服していくための努力が必要です。
ですが、他人の人生や不幸に踊らされているうちは、本質的に変えなければいけない自分自身のことを直視できないため、成長することができなくなります。
そしてこの蜜の味は劇薬で、刺激に慣れてくるともっと強烈な刺激を求めるようになります。
すると、いままでは自然と入ってくる情報に踊らされていただけだったのに、コメントで誹謗中傷するがごとく、誰かを失脚させようと画策するなど、次第に行動がエスカレートしていきます。
劣等感を克服し、自尊心を高めるために使うべき時間や労力を奪われる悪循環に陥っていくのです。
また、いつも他人の失敗や不幸の情報を触れまわる人に対して、周囲は警戒するようになります。
「自分のことも、あることないこと言われるかもしれない......」と思えば、安易に相談事もできなくなります。
プライベートだって共有したくなくなり、孤立への道をひた走る末路が待っているのです。
残念ながら、他人の不幸を見て安心感を得るのは、人間がもつ本質的な欲求です。
現代のように、拡散力をもったネット上で、他人の不幸に興味関心を寄せる人が増える状況が続けば、人々の欲求に応じてマスコミはスキャンダルを追い求めることになるでしょう。
やがて、失敗が許されない、生きづらい世の中を、自分たちでつくっていってしまうのです。
● 他人の痛みや苦しみに共感し 自分ごととして捉えてみる
そもそも自分とは全く関係のない人の人生に、影響を受けること自体が愚かなことです。
しかし、残念ながら人間は、他人の幸せや成功をうらやみ、失敗や不幸を好奇な目で見てしまう生き物なのです。
その習性を理解し、上手に付き合っていくことが求められています。
お釈迦さまが説かれた、人々を救うための四つの徳目「四摂法」の一つに「同事」があります。
これは、「同じはたらきをともにすること」という意味があります。
他人の不幸に触れたとき、それをさげすんで自分と比較するのではなく、見方を変え、「自分も同じ状況になるかもしれない」と共感することで自らを省みる機会にする。
あるいは、「やむに止まれぬ事情があったのかもしれない」と、痛みや苦しみに共感してみる。
このように、とらえ方を変えるだけで他人の人生が自分ごととなり、清らかな自分をつくっていくきっかけにすることができます。
資本主義社会では、あらゆる情報やサービスがお金を生み出すために考えられています。
人の不幸すら誰かが儲けるための商品になっている事実を、まずはあなた自身が自覚することから、試みていただきたいと思います。
そして、その情報に踊らされ、自らの低い自尊心を、他人をおとしめることで満たそうとしている愚かさから脱却し、自らを高める時間を取り戻してもらいたいと願います。
大愚元勝