「三公七民に地税なし」羨ましすぎる江戸の税事情
農民は「隠し田」による脱税も黙認されていた
大村 大次郎 : 元国税調査官
2024/08/06 東洋経済オンライン
「脱税」という言葉は「税を逃れる行為」の全般を指すものだが、税を逃れる行為というのは必ずしも「税法違反」だけではなく、法の抜け穴を突くことも含まれる。
こう語る元国税調査官の大村大次郎氏によれば、江戸時代には、為政者と庶民のあいだに税逃れをめぐる「持ちつ持たれつ」の関係があったそうです。
※本稿は、大村氏の著書『脱税の日本史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
かなり充実していた江戸時代の「社会保障」
江戸時代は、災害が起きたときの支援制度などがかなり充実していました。
日本では、古代から各地域の災害用の蔵を設け、米などを備蓄するという社会システムがありました。
戦国時代になっても各地域にその習慣は残っていたと見られます。
また、戦国時代から諸大名は城に非常用の米を備蓄しておくのが常でした。
その備蓄米は、本来は籠城時のためのものでしたが、災害のときには被災民に支給されることもあったのです。
そして、江戸時代になると、制度として災害時のための米の備蓄が行われるようになりました。
これは「囲米(かこいまい)」と呼ばれるもので、年貢の一部を非常用として別途補完するものです。
幕府はこれを江戸時代の初期から行っていました。
囲米は「囲籾(かこいもみ)」とも呼ばれました。
米は籾のまま保管すると長期保存が可能なので、籾の状態で備蓄されたのです。
そして、天和3(1683)年には、幕府は諸藩に対しても「囲米」をするように命じました。
囲米などの制度により、災害が起きたり飢饉になっても、日本ではそれほど死者は増えませんでした。
旧幕臣で、明治新政府の海軍大臣などを歴任した勝海舟によると、幕府の蔵には何十年も前の囲籾が保管されていたそうです。それだけ非常時備蓄の観念が徹底していたのです。
囲米は、江戸時代の中ごろになると米価の調整にも使われるようになりました。
米の価格が安いときは囲米を増やして米の価格を上げ、米の価格が高いときには囲米を放出して米の価格を下げたのです。
当時、米は金銭に匹敵するほど、社会の最重要物資でした。
幕府や諸藩は米の収入が財政の柱だったので、米の価格が安いと財政が悪化してしまいます。
そうかといって米の価格が上がりすぎると、庶民の生活が苦しくなります。
また、米の価格というのは、ほかの物価にも大きな影響を与えていました。
そのため、幕府は囲米によって、米の価格や米以外の物価の調整をしていたのです。
つまり、幕府は囲米の売買を行うことで、現代の中央銀行のような役割も果たしていたことになります。
年貢の税率は、おおむね「三公七民」程度
農民たちがこのような豊かな生活を送れたのには、税がそれほど重くなかったことがあります。
江戸時代の年貢は、通説では五公五民などと言われていますが、現実の収穫量などを検討すると三公七民くらいだったようです。
江戸時代の初期はインフラ整備の費用がかかったので、四公六民くらいでしたが、それが一通り終わると、三公七民くらいに落ち着いたようです。
また、インフラ整備のときに多めに取られていた年貢も、その多くは人夫として雇われた農民などに支払われました。
年貢の決め方には、「検見(けみ)法」と「定免(じょうめん)法」がありました。
検見法というのは、その年ごとに収穫具合を見て年貢を決めるというものでした。
この検見法では、その村落であまり収穫のよくない田んぼが基準とされました。
なので、農民にとってはかなり有利となったのです。
また、検見に来る役人(武士)に対して、村は丁重にもてなし賄賂を贈るなどして、年貢を低く抑えてもらうこともありました。
定免法というのは、過去の収穫量をもとにして一定期間同じ量の年貢にするという方法でした。
あまり手間がかからないし、賄賂などの不正も生じないことから、江戸時代の後半はこの方法が採られることが多くなっていました。
定免法では、領主の側は一定の年貢が毎年入って来るというメリットがあり、農民の側は一定の年貢さえ払えばそれ以上に収穫したものは自分たちの物になるので、生産意欲がわくというメリットがありました。
定免法には、自然災害や天候不順などで収穫量が落ちた場合、農民の負担が大きくなるというデメリットがありましたが、そういう場合は、その年だけ検見法に切り替えられたり、例年よりも年貢量を減らすなどの方法が採られました。
つまり、どっちに転んでも農民の負担が大きく増えないようにされていたのです。
「隠し田」による脱税が黙認されていた農民たち
しかも当時は、どこの農村にも「隠し田」と言われる、簿外の田がありました。
この隠し田には、年貢はかかりませんでした。
役人たちも隠し田の存在は、ある程度知っていましたが、多くの場合、見て見ぬフリをしていたのです。
二宮尊徳も、年貢の課せられていないあぜ道などに作物を植えて、稼ぎの足しにしていたそうです。
もちろん、領主は農民の隠し田を把握し、年貢を増やしたいと思っていました。
そのため、検地と呼ばれる「土地調査」を行おうとします。
しかし、土地調査というのは実はそう簡単なものではありません。
全国の土地を測るという実務的な困難さもありますが、農民の反発という大きな障害があるのです。
検地(土地調査)をすれば、隠し田が見つかってしまいます。
また、農地を正確に把握されることは、課税が厳しくなるということにもなります。
だから、検地というのは、昔から非常に難しいものだったのです。
この検地は、豊臣秀吉の時代に本格的なものが行われましたが、それ以降は、全国的な検地は行われていなかったのです。
たとえば、天保13(1842)年に近江地方で幕府が幕領の検地を行おうとしましたが、農民の反対に遭い、中止されてしまいました。
農民が検地をさせないということは、現在で言えば税務調査をさせないようなものであり、「自分たちは年貢を誤魔化していますよ」と言っているようなものです。
領主側もわかっていながら、農民の反発が怖くて検地を強行することはできなかったのです。
江戸時代の農民は、それほど領主から恐れられていたのです。
明治時代になって地租改正のために全国の農地を計測しましたが、江戸時代の記録では日本全国の収穫量は3222万石となっていたのが、実は4684万石もあったことがわかりました。
実際の石高は、名目の1.5倍もあったわけです。つまり、隠し田が相当あったと思われます。
町民は、農民よりもさらに生活が楽だったと見られます。
特に江戸の町民は非常に恵まれていました。
まず、江戸の町民には税金らしい税金は課せられていませんでした。
中世以降、町民は「地税」という税を納めるのが普通でした。
これは土地税のようなもので、江戸時代においても、江戸以外の地域では普通に徴収されていました。
しかし、江戸の町民だけは地税を払っていなかったのです。
江戸の町民たちが幕府を大好きだった理由
なぜ江戸の町人だけが税金を免れていたのかというと、天保13(1842)年に勘定奉行の岡本成は、次のように述べています。
「町民が地税を納めるのは当然のことながら、江戸の場合は、徳川家が江戸に入ったときに、寛大さを示すために地税を取らなかった。
そのため、江戸の町民は地税を納めなくていいものと思い込み、これまで地税を徴収できなかった」
なんともお人好しというか、呑気な話ではあります。
おそらく、家康が秀吉による国替えで江戸に入ったとき、江戸に人を呼び寄せるために、最初は地税を取らなかったのでしょう。
それがそのまま、町民の「既得権益」となってしまったのです。
この発言があった天保13(1842)年というと、江戸時代の最後期です。
つまりは、江戸時代を通じて、江戸の町人たちは地税を払わずに済んだのです。
そのため、江戸の町民たちは、江戸幕府が大好きでした。
戊辰戦争で官軍が江戸を占領したとき、江戸の町民たちは官軍から求められた御用金の拠出にはなかなか応じませんでした。
江戸の町民が、江戸幕府に対して恩義を感じていたからなのです。
このように、かなり恵まれた境遇にあった江戸時代の町人たちでしたが、そうかといって、商人への過度な富の集積も起きませんでした。
当然ながら、長い江戸時代の間には大商人も生まれ、大名の中には商人に頭が上がらない者が出てきていました。
しかし、中世や近世のヨーロッパ諸国のように、国王が国土を担保に金を借りたり、商人や銀行家に振り回されたりというような事態は生じなかったのです。
これは、あくまで幕府が政治経済を主導し、管理していたからだと考えられます。
江戸時代はかなり自由な商業活動が許されており、富の蓄積も認められていました。
ただ、あまりに強欲な商売をしている商人や、贅が過ぎるような商人は財産を没収されたり取り潰しに遭うこともあったのです。
たとえば、大阪で米の先物取引を始めたとされる豪商の淀屋は、5代目のときに「豪奢を極めた」ということで咎を受け、全財産を没収されています。
また、富豪にはそれなりの社会的な責任も求められました。
江戸時代から昭和初期にかけて、日本一の地主と言われていた山形・酒田の本間家なども、防風林の植林や飢饉対策などのために多額の自費を投じ、幕末には藩に巨額の御用金を供出しています。
武士も「祖父の代からの借金」は背負うことがない
江戸時代の中ごろから武家の生活はかなり苦しくなっていましたが、没落してしまう武家はあまりいませんでした。
武家の主な収入源は年貢で徴収した米だったのですが、江戸時代も中ごろになると、様々な商品が市中に出回るようになり、米の価格が相対的に下がりました。そのため、武家の生活は苦しくなったのです。
しかし、没落して武家の身分を放棄してしまうような者は、それほど多くはありませんでした(もちろん一部には存在しましたが)。
これは、幕府の巧妙な経済政策によるものと思われます。幕府は定期的に、武士への救済処置を行っていたのです。
江戸時代には、享保、寛政、天保という3回の大きな改革が行われています。
この3回の改革にはそれぞれに特徴がありますが、1つだけ共通点があります。
それは、「武士の借財を帳消し」にしたことです。
そして、武士の借財の帳消しは、享保の改革以来、だいたい50年周期で行われています。
そのため、「父親の代からの借金を背負うことはあっても、祖父の代からの借金は背負うことがない」という状態だったのです。
また、幕府は商人側にも配慮しました。
武家の借財帳消しを行うたびに、札差(金貸業者)に対し特別融資を行うなどをして、金融不安が起きないようにしたのです。高圧的に借金を踏み倒すだけじゃなく、それなりの手当も行っていたのです。
だから、札差(金貸業者)も極端な貸しはがしに走ることはなく、江戸期を通じて武家との持ちつ持たれつの関係を保っていたのです。
大村 大次郎 元国税調査官