人はなぜ身分と学歴をまとう者にだまされるのか
2024年09月08日 東洋経済オンライン
作家の中島敦に、中国の古典からとった『山月記』という作品がある。
李徴という若者が詩人を志すが、その傲慢さがたたって、虎になったという話である。
そこに次の言葉がある。
「人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外見をかくの如く、内心にふさわしいもの変えてしまったのだ」
権力ゆえの魔物にとりつかれた政治家たちここでいう尊大な羞恥心とは、他人に対する臆病さゆえの傲慢さである。
人は、時としてナルシストになり、尊大になる。パワハラでいま話題の、兵庫県知事の斎藤元彦氏などその典型といえるかもしれない。
彼の答弁を聞いていると、李徴に似ているようにも思える。
しかし、こうした傲慢さは、この知事に限ったわけではない。
権力という魔物に取りつかれることで、持ち前の心の中の猛獣が頭を持ち上げるからである。
民主的に選ばれた首長が、いつのまにか独裁者になるというのは、よくあることだ。
心の中にある猛獣が牙をむくのである。
まして李徴のように、試験によって選ばれたエリートならば、なおさらその自尊心は強く、猛獣的激しさは周りのものを足元に置き、奴隷状態にいたらしめる。
民主主義社会では、その能力によって地位が決まる。
その能力は、教育機関が行う試験によって決定される。
有名大学を卒業し、キャリア官僚になったものには、まさに折り紙つきの名誉が与えられるからだ。
こうして将来を保証された特権エリートの周りに、それにおもねる輩が集まる。
後進国家として、先進国家を猛追するにはこうした特権エリートの存在が効果的であったことはいうまでもないが、先進国家ではむしろ彼らはマイナスとなる。
試験エリートは与えられた問題を解くだけのエリートであり、自ら新しいものを創造できるエリートではないからだ。
今ではこうした学歴エリートが、地方創生と称して地方にどんどん送りこまれ、地方を創生すべく県知事や市長に天下っている。
中央の財政援助を得るために、中央の支店となり、水戸黄門の印籠よろしく上意下達で、地方を国家に従属させていく。
これで地方が創生すればいいが、実際には地方の衰退は加速化しているともいえる。
尊大さを秘めた虎があちこちに
県知事や市長の多くが、中央政府の選挙支援で総務省や自治省の学歴エリートに支配されつつあるという事実は、日本がますます中央集権化していることを裏付けている。
しかも、彼らは学歴エリートであることで、尊大さを秘めた虎になる可能性がある。
この虎退治は簡単ではないのだ。
日本とよく似ているのがフランスである。フランスは、日本以上の中央集権とエリート主義の国家だ。
日産自動車を迷走に導いたカルロス・ゴーンは、こうしたエリートの1人だった。
もちろん、日本と違ってフランスのエリートは文部省管轄の大学ではなく、省庁管轄のグラン・ゼコールの出身である。
大学3年から入学するエリート校は、まさに狭き門である。
その中でも有名なものが、ENA(L’Ecole Nationale d’Administration 、国立行政学院)、エコール・ノルマル(L’Ecole Normale Supérieure、国立高等師範学校)、ポリテクニーク(L’Ecole Polytechnique、理工科学校)などである。
ナポレオンは近代社会の申し子で、身分や天命を信じず、科学と理性を重んじた。
その結果、こうしたグラン・ゼコールというエリート学校を創設するに至る。
これらの学校を卒業したものは、高く評価され、やがて学歴エリートとして社会のトップに上り詰めていく。
フランスは、共和政体をとったことで、全国津々浦々をパリと同じように均一化していく。地方の若者も、グラン・ゼコールを出さえすれば、トップエリートの座につくことができるようになる。こうして近代の学歴エリートによる政治の支配が生まれる。
廃止されたグラン・ゼコール
その中でもとりわけ影響力が大きかったエリート中のエリートこそ、通称ENAと呼ばれる国立行政学院である。
この学校は、ナポレン時代ではなく、1945年の戦後に設立された新しい機関だ。
わずか100人足らずしか入学を許可されないエリート中のエリート校である。
将来の大統領候補である政治エリートはここで培養され、若くして地方自治体や企業などの幹部となり、フランスを支配していく。
フランスの県知事は、選挙制によって選ばれる市長とは違い任命制である。
大統領によって任命されたエリートが県政をつかさどる。
こうして中央エリートが全県を統制するシステムが成立する。
しかし、マクロン政権のもと、このエリート養成機関であるENAの廃止問題が議論されることになった。
そしてとうとう2021年、ENAは廃止された。
しかし、学歴貴族がなくなったわけではない。
その廃止をめぐって行われた議論の中心は、ENAへの入学が特定の階層に独占されているということであった。
「学歴貴族」は、ピエール・ブルデューの『遺産相続者たち:学生と文化』(石井洋二郎訳、藤原書店、1997年)の文化貴族たちを意味し、家柄エリートしか知りえない文化資本(音楽や文学などの趣味)がないと入学できないというのである。
確かに面接が重要視される試験においては、それとなく醸し出す立ち居振る舞いで合格は決まる。
フランスのエリートがもつ身分制時代の貴族的気風は、こうして学歴主義の時代になっても残存していったというわけである。
ただもう1つ重要な問題が残っている。
それは、入学する出身者の階層の問題だけでなく、こうした文化資本をもって卒業したエリートが、現在のAIデジタル化時代の中で進展する社会の発展の中で、果たして有能なエリートたりえるのかどうか、という問題だ。
同じ問題は、フランスのみならず、イギリスでもアメリカでも起きている問題だ。
学歴エリートは、近代社会になって生まれた身分制度から業績主義への変化の中で生まれたものである。
昔のエリートは今のエリートたりえるのか
その前提は、人間の知能や業績は明々白々と計測できるという信念によって裏付けされている。
それまでの身分制が崩壊した後、その間隙を縫って生まれたのが学歴主義である。
身分制が崩壊した後の社会をどう運営するのかというときに、学歴主義が身分制に取って代わったのだ。
入学難関な大学、合格難関な国家試験をパスしたものは「優秀であるに違いない」という発想が、近代社会の秩序を支えているといってもいい。
身分制社会が資本主義社会の業績主義に耐えられなくなって、次第に姿を消していったように、新しいこの学歴主義も新しい時代の要請に対応できるわけではない。
その1つの問題が、文化エリートの教養が今の社会システムの急激な変化についていけなくなっていることがあげられる。
そうなると、学歴エリートは「素材としての頭のよさ」を保証するだけのものにすぎないのかもしれない。
となると、頭に古典を詰め込んだ教養主義など無意味となる。
その意味で、皮肉なことだが、もっとも進んだ近代主義国家は日本なのかもしれない。
日本はフランス以上の学歴至上主義の国家だからである。
学歴は勉学を意味するのではなく、試験の成績だけを意味する。
高度な学術的知識など二義的なものにすぎない。
だからこそ、日本では高度な教育を学ぶために大学院に進学するものがあまりいない。
日本で学歴という言葉から意味するものは、諸外国と違い、どのブランド大学を出たかということだ。
ブランド大学を出たものは、学識は別として、素材たる頭がよいとされている。
素材がエリートの資格であるというのだ。
それは大学でなくとも、高校や中学でもいい。ブランド小学校に入ったことも、ある意味、高学歴を意味することになる。
だから学歴エリートは素材とやらは別として、専門的業績も教養もなくともエリートたりえるのである。
こうして難関試験に受かっただけで世間にちやほやされる学歴エリートは、『山月記』の李徴のように、傲慢不遜な人間となることが可能となるのだ。
そうした輩が若いうちからちやほやされれば、専門的業績や教養、そして実績のある、学歴のない者を小ばかにしてしまうのも、無理のないことかもしれない。
そしてそのまま十分な知識もなく、上座に座り、政治や経済を指導し、支配することになりかねないのだ。
エリートによる横暴を甘受する国民
しかるに、今日本では、世襲議員という名の特権身分エリートと、こうした学歴(最近では日本以上に権威のあるアメリカのブランド大学を出た)エリートが日本の針路をつかさどっている。
植民地政権よろしく、それにかしずかねばならないわが国民は、まことに哀れだというしかない。
しかしながら、国民は、何度もこうしたエリートの横暴で被害を受けながらも、輝かしい身分とその学歴に魅了されて、何度でもだまされ続けることになるのである。
これはもちろん今に始まったことではない。
確かな能力だと判断するものがない以上、そうではないと理解しつつも、人はまたその身分と学歴の魔力に翻弄され、容易にだまされてしまうのである。
このことを見事に表現した、1853年のカール・マルクスの言葉を最後に引用しておこう。
「ルッジェーロは、何度でもアルチーナの偽りの色香に惑わされる。
その色香のかげには、そのじつ、「歯もなく、目もなく、味覚もなく、なにもない」一人の老いた魔女が隠れているものだということは、彼にもよくわかっているのだが。
この武者修行の騎士は、これがいままで自分に恋慕した人間をみなロバや、そのほかの動物に変えてしまった女だということを知りながら、またしても彼女に恋慕するのを抑えることができない。
イギリスの大衆こそもう一人のルッジェーロであり、パーマーストンはもう一人のアルチーナなのである」(『ザ・ピープルズ・ぺーパー』1853年10月22日、『マルクス=エンゲルス全集』大月書店、341ページ)。
だまされないためには、大衆にも、学歴という魔力から抜け出すための経験知と地頭が必要なのだ。
(ちなみにルッジェーロとアルチーナの物語はアリオストの『狂えるオルランド』〈脇功訳、名古屋大学出版会、2022年〉の登場人物である)
的場 昭弘 神奈川大学 名誉教授