司法は国民を守ってくれない…”国家賠償請求訴訟”で明らかに「おかしい判決」がまかり通る日本司法の闇
1/21(火) 現代ビジネス
「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか?
ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。
残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。
彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。
とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。
それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。
裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。
大勢に従う日本の判決
日本の裁判官には、最高裁判例や従来の下級審判例の有力な方向に追随する傾向がきわめて強い。
問題になっている争点に関連する判例群の批判的な検討を行わず、事大主義的に大勢に従う傾向ということである。
その典型的かつ大規模な例として、国家賠償請求訴訟の一類型である水害訴訟を挙げることができる。
当初は、水害訴訟では多くは原告が勝訴していた。
ところが、最高裁の否定判決(1984年〔昭和59年〕1月26日)が出るや、下級審判例の流れは一変し、逆に、すべてが棄却されるようになってしまった。
ここで問題なのは、最高裁判例の事案が「溢水型」、つまり、堤防は壊れないが水があふれた事案、また、改修途上の未改修の河川に関する事案であったにもかかわらず、その後の下級審判例が、「破堤型」、つまり、堤防が決壊した事案、また、改修途上の河川ではない、必要な改修が行われたはずの河川に関する事案についてまで、原告の請求を棄却するようになってしまったことである。
最後には、無用な堰が放置されていたことが原因で堤防が壊れたという、これが国家賠償でなければ何が国家賠償なのかという事案まで棄却されてしまった(1987年〔昭和62年〕8月31日東京高裁判決。多摩川水害訴訟。なお、第一審は認容していた)。
さすがに、この判決は、最高裁によって破棄された(1990年〔平成2年〕12月13日)(以上につき、詳しくは、古崎慶長「河川管理責任の『つまずきの石』」ジュリスト898号24頁以下参照)。
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。
元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行され、たちまち増刷されました。
「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」「なぜ、日本の政治と制度は、こんなにもひどいままなのか?」「なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から抜け出せないのか?」
これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。
法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
日本の裁判所、裁判官にはほとんど期待できない
日本の裁判は精密司法であるとか、日本の裁判官は優秀であるから信頼できるなどといった法律家集団の自画自賛的な言葉がそのままに信じられないものであることが、おわかりになるのではないかと思う。
判例には必ず「射程距離」というものがあり、それを厳密に読んでいく作業は、法学のイロハである。
しかし、前記のような下級審判例の流れは、多くの下級審裁判官がこの作業をまともに行っていなかったことを示している。また、水害訴訟はともかく棄却しておきさえすれば安全、へたに認容して最高裁の逆鱗に触れたら大変という裁判官たちの心情も、容易に読み取れる。そうでなければ、一般人が常識で考えても明らかにおかしい多摩川水害訴訟控訴審判決のような判断が、出るわけがないのである。
このような傾向は、すなわち、時代や社会の流れが悪い方向へ向かっていったときにその歯止めになって国民、市民の自由と権利を守ってくれるといった司法の基本的な役割の一つについて、日本の裁判所、裁判官にはほとんど期待できないことを意味する。
追随、事大主義を旨とする裁判官が、時代の雰囲気、「空気」に追随し、判例の大勢に従って流されていってしまうことは、明らかだからである。
その意味では、国民、市民としても、個々の判決の結論だけをみてそれを評価するという姿勢は変えていく必要があるだろう。
つまり、裁判官の全体としての姿勢も大切だということだ。
国民、市民の自由と権利が侵害されていくときに踏みとどまってくれることは、追随型の裁判官にはまず期待できないが、独立型の裁判官であればそれが期待できるからである。
アメリカのみならず、日本においても、2013年の特定秘密の保護に関する法律の成立により、国民、市民の基本的人権、各種の自由、ことに知る権利や表現の自由を制限する方向への政治の動きが明らかになり始めている今日、この点はことに強調しておきたい。
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。
元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行され、たちまち増刷されました。
「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」「なぜ、日本の政治と制度は、こんなにもひどいままなのか?」「なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から抜け出せないのか?」
これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。
法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授